遺誌  独立歩兵第13聯隊             第3大隊のレイテ戦史
私の連絡先 mail to:  ma-shige@sakai.zaq.ne.jp
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 ト ッ プ ペ ー ジ
 静岡県出身者で現役兵を以て編成された部隊は 北支厚和から遠路比島戦線に急派され  
 ルソン島 経由  19年11月 レイテ島決戦に参戦玉砕した。 第26師団(泉師団) 傘下
 独立歩兵第13聯隊(泉5316) 第3大隊の慰霊のページです            
 特に レイテ決戦参戦の 各部隊戦史 及び 海没した輸送船史(第2大隊乗船の
 玉津丸がバシー海峡で海没)他の大戦中 海没した2,000隻を中心に 追跡調査 資料を収集しました
                                 
合掌
 メニュー 名   内 容 の 説 明 A4  印刷で  63 ページ あります
   トップページ    ご挨拶と第3大隊が玉砕した 現地ブラウエン飛行場の写真等  
                                  7 ページ
   レイテ文庫   収集蔵書している レイテ関連・海没した輸送船 
  書籍資料を紹介                     20ページ
  A・ B-1・ B−2・ B−3・ B−4・
  
C・ D・ E・ F・ G・ H・ I・ 欄 A〜I    590 冊 
  J・ k・ L・ M・ N       J〜N     271 冊 
  特に海没した 輸送船関連(B−1)の書籍は 充実しました
  慰霊活動   長年携わった私の 慰霊活動を記述                 
                                   5 ページ
  曙光会   唯一現在も活動をしている 比島戦線 戦友と遺族の会     
                             3ページ
  戦記書籍を 紹介する本   戦記書籍探索の際に 参考とする書籍              
                            1ページ
  部隊関連戦記   レイテ参戦全部隊の紹介と父が属した 第3大隊の戦史及び
  南方戦線転進途中 聯隊の3分の1が乗船した玉津丸の悲劇 
  
                                  11 ページ
  部隊戦史の記述本   上記第3大隊の記述がある 戦記書籍の紹介            
                                   1ページ
  海没した輸送船   大戦中海没した輸送船は7,000隻以上と云われていますが     
                                  16
ページ
  内 主だった976隻の記述ある書籍の紹介(輸送船史の手引
) 
                             書籍 57冊
  掲示板   レイテ文庫の借用 ご質問等 書き込み下さい
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 年月日
  更  新  履  歴  (本 HP は   20・08・10  開設) 
              (カウンターは   21・01・08 設置
              (J・COM から サクラネットに移行 29・02・01)
 
30・12・11
下記講演会で 配布した資料 「レイテ戦の推移」を部隊関連戦記欄に記述
30・12・09  東京都文京区 文京シビックセンターにて
史実を世界に発信する会・二宮報徳連合・新しい歴史教科書を作る会・
英霊の名誉を守り顕彰する会・特攻隊戦没者慰霊顕彰会 後援
「レイテ戦の真実」と題して
1時間基調講演 出席者95名 内別途 私が案内した方(泉師団)の出席31名
30・09・23  静岡県護国神社 第 61回部隊慰霊祭出席
30・06・25  6月レイテ慰霊巡拝を実施したi氏等一行の 帰国後の親睦交換会に一泊で出席
 (7名出席
30・05・13 レイテ会出席 一行14名 名古屋護国神社参拝後2泊3日の親睦旅行 
(平成22年 レイテ島に慰霊巡拝した一行)
30・04・15  日比国際友好協会 戦没者慰霊祭出席
30・04・01 愛知県三ヶ根山 比島観音例大祭 前泊で出席(例大祭は今年で終了)
来年以降は 自主参拝
29 年度
戦没者慰霊活動
G11月26日 靖国神社偕行の間で開催のバシー海峡戦没者慰霊祭で30分
         「悲劇の輸送船史」と題して玉津丸の悲劇を語る  出席者100名

F11月10日 大阪駅前第1ビル 会議室にて 一金会主催例会にて 「悲劇の輸送船史」
         と題して 一時間講演  30名
E9月23日  静岡県護国神社 第60回部隊慰霊祭出席
D7月16日  靖国神社御霊祭り参拝し 都内にてバシー会に出席
C5月16日  曙光会 京都大会一泊参加
B4月23日  日比国際友好協会主催 慰霊祭出席
A4月2日   愛知県三ヶ根山 比島観音例大祭 主催者の皆さんと前泊出席
@2月6日   大阪駅前第1ビル凌霜クラブにて バシー海峡戦没者遺族 懇談会を開催

         玉津丸の海没を中心に 2時間 輸送船史を語る  当日の出席者 15名
28・01・26   中日新聞 1月26日 朝刊 2面 総合欄カラー写真入りで戦禍の記憶欄に「戦死者を埋もれ
 させない」
として報道
 東京新聞 同日 28面 社会欄でも報道される
28・01・21  読売新聞1月21日 朝刊 34面社会欄 両陛下フイリピンへ欄に 「父自決の地知りたいとして
 私のことが報道される
27・11・01  BS日テレ NNNドキュメント「妹和子より」出演 再々放送であるが
 この番組は 福岡FBS放送7月7日の取材 により初回8月に福岡県エリアで  1時間
 再放送は 10月25日 30分番組に短縮され読売系で「NNNドキュメント
で放送
27・10・27   週刊文春 10..27発売11月5日号 139頁に 71年目のリアル「レイテ戦記」
 「少年に渡された軍参謀長の手記」に登場
27・08・04   8月2日 台湾の最南端 猫鼻頭 潮音寺で開催された「 戦後70年記念バシー海峡戦没者
 慰霊祭」に出席 バシー海峡で海没した 玉津丸の悲劇を前後3回 皆さんの前で語る

 慰霊祭出席者は メデイアを含めて200名超
25・09・23   ノンフイクション戦記作家 門田隆将先生の取材に協力
 
(玉津丸から生還者した中嶋秀次氏を紹介)
 角川書店から1年後に「慟哭の海峡」として出版される
25・05・07   海没した輸送船 新規ブログ 開設
 大戦中 空爆 触雷 雷撃により海没した 956隻の輸送船史
24・10・14   レイテ文庫に追加 
 @「NHK戦争証言アーカイブス 動画サイト」より 生還者の証言、語り22名分をコピー追記
  A独歩13聯隊第5中隊 マスバテ島からの生還者 瀬ノ上氏の手記を追加
24・05・20  慰霊活動
 3月4日放送のNHKテレビ放送 DVD50本録画  曙光会大会席上で10本 レイテ会席上で
 10本、メールによる依頼6本 旧知の方に20本提供
24・04・02   慰霊活動
 「レイテ会」=平成22年厚労省慰霊巡拝レイテ班一行  靖国神社に昇殿参拝 
 事前に昨年実施された「洋上慰霊」参加者の昇殿参拝の集いを承知し 当日の出席者に
 海没輸送船資料を提供した
 
 全国から略150名出席 大分 千葉 茨城県の方20名(旧知の方を通じ 該当の輸送船)と
 無差別に30名 海没した輸送船名700隻とその記述ある書籍の紹介資料を配布した
24・03・04   慰霊活動
 NHK熊本制作 3月4日 BS3チャンネルで放送    
 事前に メールで47件 ハガキで30人にお知らせをした
 「証言記録 兵士たちの戦争 フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦
 第23師団
 部隊関係者 4名を紹介し取材協力 番組には 旧知の山田 人見 松下の各氏出演
23・12・20   レイテ文庫「E欄」に追加
 「太平洋戦争最後の証言 第2部 陸軍玉砕編」門田隆将著 小学館出版 レイテ島
 8万人の慟哭第5章 取材に応じ著者より謹呈を受け
23・10・31  部隊関連戦記 に追加
 バシー海峡で海没 輸送船海没では 最大の悲劇と云われる玉津丸 戦死者の当時の 
  戦死公報(あるご遺族から提供を受ける
) 
23・09・25  レイテ文庫   輸送船(B欄)を 以下の通り分別整理(10冊追加公開)
  @輸送船    
B−1  54冊  海上輸送で活躍した輸送船500トン以上の 1,000隻の 記述
  A玉津丸    
B−2  34冊  バシー海峡で海没した史上最大の 玉津丸の悲劇
  B多号作戦  
B−3  19冊   レイテ輸送作戦 第1次から 第9次までの記述
  C海上挺進基地大隊 戦隊

            B−4 
11冊  比島に於ける海上特攻 挺進戦隊の戦記
           関係者から資料請求の際 容易にするため 整理
23・09・08  レイテ文庫に追加
 「この命義に捧ぐ台湾を救った陸軍中将根本勝の奇跡」著者 門田隆将先生の取材要請に
 レイテ島からの生還者2名を紹介 そのご縁から 靖国会館で著者の奥様と面談
 「太平洋戦争最後の証言」「蒼海に消ゆ」の2冊を贈呈される 
 山本七平賞 受賞著者で 最近では係る書籍は少ないが 太平洋戦争を語る関係者には
 是非  一読をお勧めしたい 
N欄 
23・03・05   慰霊活動
 「洋上慰霊」参加者を神戸ポートターミナル港埠頭で歓送参加者に資料提供の為 
 輸送船関連を既蔵書分から抽出し(別途購入もあり)レイテ文庫に 追加公開    
B欄
  同慰霊船に参加の玉津丸遺族の要請で後日「玉津丸遺族会を静岡駅前のホテルで開催  
 生還者中嶋秀次氏 の出席を頂き  13名の会合   
23・01・07  レイテ文庫に追加  H欄
 DVD欄に追加 23・01・07(金)朝日放送で放映された「探偵ナイトスクープ」
 大阪府在住のs氏は苦労して女手一つで育ててくれた母親の遺品を整理中、戦地の戦死した
 父からのハガキを発見、その内の1通は幾度となく母が読み返したのであろう スリ減りその上
 エンピツ書きで判読困難、以前から気にかけていたが父の 出征時は自分は母のお腹の中で
 果たして父は此の事を知っていたのであろうか 俄然 このハガキが気に掛かり テレビ局に
 持ち込み後いろんな機関で 現代の科学を駆使し 最後は完全解読に成功したという内容
 文面は身重の妻(母)を気遣い 生まれてくる愛児への想いが綴られており 最後に当時の
 心境も詩として書かれている、 涙涙の番組
 独立工兵第65大隊の遺族で最後はレイテ
 決戦に参戦し玉砕(事前に連絡があり録画)
20・04・24  慰霊活動「バシー海峡〜知られざる惨劇の記憶」 前後3度に亘って取材協力 名古屋テレビ
  22・9・12 放送
  以降 朝日放送系で全国放送され画面に取材協力者として私の氏名あり
  バシー海峡で海没した「玉津丸」には独歩第13聯隊兵士1,500名が乗船戦死
 (26師団では2,000名)
20・04・16  慰霊活動 TBSテレビ取材に協力 「最後の赤紙配達人21・08・10 放送赤紙一枚で召集
  された当時の召集制度
20・04・10  慰霊活動  大阪府遺族会で講
20・04・03 慰霊活動 20・8・15 NHKテレビ放送の「兵士の証言 レイテ決戦」の取材に協力画面に
  取材協力者として 私の氏名あり
 本HP開設の契機となる
 
部隊の国内慰霊碑は
静岡県 護国神社境内にあり殉国の碑と刻まれ以下の碑文となっている
 昭和33年9月23日第1回慰霊祭が開催され新聞報道では 関係者5,000人集うとある 
 以降 毎年9月23日(彼岸の中日) 午後一時から 平成28年現在も59回目目の 慰霊祭が関係者 遺族が集い
 開催されています



       上記は 独立歩兵第13聯隊誌(昭和55年9月刊行)より
 
  独立歩兵第13聯隊誌の 序文には
  昭和33年9月23日 静岡県護国神社の緑に囲まれた境内の一隅に悲涙追憶の慰霊碑を
  建立、部隊の関係者 戦友同志がひたむきな努力を結集して造った その碑は
 『殉国の碑』と刻まれた。この碑をふり仰ぐとき あの若き人々の痛ましい記憶は、
  痛恨遠く 久遠に戦史を飾るであろう
  この碑文を涙に濡れて辿りながら 人々は 戦いは すまじと心に刻むであろう
 
 
 聯隊歌

  1・興亜の意気に血は燃えて 大皇軍の前衛と 昭和十二の秋深く 燦然仰ぐこの御旗 栄誉輝く我が部隊
  2・黄塵巻きて胡砂踊り 陰山風鉄火飛ぶ 河曲沫源オルドスや鎧袖一触五原城 勲は薫我が部隊
  3・楊柳芽ぐむ黄河畔 熱砂涯てなきゴビ砂漠 蒙彊楽土の我が理想八紘一宇の秩序成る あヽ明朗の我が部隊
  4・見よ綏遠の朝ぼらけ 精気は清く立ちこめて 殉国勇士の魂魄か 国の精華の花の色 あヽ忠烈の我が部隊
  5・世紀の雄叫び涛々と 白波高し太平洋 寒風吠ゆるウラル山誰か阻まん大和魂 あヽ堂々の我が部隊  


 部隊終焉の地  レイテ島ブラウエン南飛行場跡地(現地名バユグ)の写真
                         戦後25年経過した 昭和45年10月 母が撮影 

  
 第26師団(泉兵団)独立歩兵第13聯隊(泉5316部隊 ・ 静岡県の郷土部隊)
  第3大隊が突入玉砕した レイテ島ブラウエン南飛行場跡地から西方 ロビ山を臨む
  戦後25年経過して未だ椰子林も疎らで住民も少ない    


 上記と同じ撮影場所と思われる慰霊碑の裏側から 東西に跨る滑走路跡
                 上記撮影から経過して29年後の 
平成10年4月 私が撮影


 左端の小高い山は戦史にも登場の287高地で第3大隊は, この地で待機後
 東方のブラウエン町の南方を迂回して斬り込みをしたと伝えられている。
 平成18年 巡拝時には更に椰子などの樹木が生い茂り 見通しは悪くなっている.
 ブラウエン町の公園からドラグへ通じる幹道途中を北へ幅2メートルの細道を通り
 行き止まりに慰霊碑があり、途中に今は養豚場があり子豚が綱で繋が れて
 いたり 周囲は一面水田と湿地帯で 雨季には車は入れない時もある

ブラウエン南飛行場 戦闘経過の概要
 (泉レイテ島慰霊巡拝団編 レイテの山河に祈るから抜粋)
 レイテ島の数ある激戦地の中で2度にわたって争奪戦が演じられた戦場は少ない
 その数少ない激戦地の一つがブラウエン飛行場群である
 南飛行場(バユグ)、中飛行場(サンパプロ)、北飛行場(ブリ)、三つがそれである
 第1回目の戦闘は米軍上陸直後の昭和19年10月25日で、サンパプロ飛行場の整備
 要員も南飛行場の防衛のため移入された此の戦闘は激戦であったが、戦闘詳報は
 日米両軍ともに残っていない。
 第2回目の戦闘は米軍占領後 これを奪回するための空陸一体の大激戦であった。
 泉の独歩13聯隊重松第3大隊が、西海岸に上陸後、脊梁山脈を越えて参戦した。
 米軍は脊梁山脈越えの増援部隊の進出は全く予期していないだけに米軍の混乱は
 想像以上であった。
 12月6日夜 まず重松大隊の斬り込みによって火蓋が切られ、18時40分虎の子精鋭
 高千穂降下部隊〈挺進第3聯隊)の敵中降下によって最高潮に達した
 皮肉にもこのごろ西海岸ではレイテ決戦に重大影響を及ぼす一大事が突発していた
 米軍戦略予備77師団のイピル デボシット海岸逆上陸である
 折角 占領したばかりブラウエン戦線を離脱して重松大隊は反転の命令を受けた。
 再び筆舌に尽くし難い山越えとなった。この間弾薬食糧の補給は皆無、ダナオ湖を
 経てオルモック近郷にたどり着いた兵は数えるぼどに激減していた。
 重松大隊の無念 察するに余りある。
 なお ブラウエン西方10キロ附近に於いて山越え進攻時、資材輸送に任じた輜重兵
 第26聯隊(泉5321)、進攻路啓開作業に任じた工兵第26聯隊(泉5319)同部隊配属
 の独立工兵第65大隊(威6089部隊)はこの地で玉砕したと伝えられているが 
 密林地帯で入山不可能その詳細は不明のままである 昭和45年4月16日独歩第13
 聯隊戦没者慰霊碑を山麓に建立した  合掌
 


 昭和21年6月頃と記憶している         (上記は今は亡き東嶋大尉の直筆)
 大分県別府市の旧陸軍病院にて重傷ながら奇跡的に復員され療養中の東嶋登大尉
 (独歩第12聯隊副官)様が書かれた独歩第13聯隊第3大隊行動図
 当時出版されていた「軍参謀長の手記 友近美晴著」表紙裏面に書かれ父の戦死に
 至る戦史をお知らせ頂いた
 その後 同大尉は第1回部隊慰霊祭(昭和33年3月)を待たず 戦傷が因で昭和31年
 死去されたが その間松葉杖をついて多くのご遺族宅を訪問 慰霊に尽くされ 貴重な
 多くの証言 記録も残された。
 大岡昇平の「レイテ戦記」執筆取材には奥様が応じ各所に記述され今では 戦没された
 泉師団13,800名英霊が内地 日本に託した最後の使者であつたと思われている


 
泉会(第26師団 戦友と遺族の会)が現地に建立した慰霊碑
   白塗りの十字架の慰霊碑で平成16年に更新
   下記 地図は私が最初に現地巡拝後〈平成10年)自作したもの


 慰霊碑説明
 @ブラウエン慰霊碑(南飛行場跡地 現地名バユグ) 昭和45年4月16日建立
   5316部隊第3大隊が飛行場奪還作戦(和号作戦)で斬り込み玉砕した場所
   慰霊碑では唯一 屋根を葺き フエンスで囲ってある 多くの卒塔婆がある
  
 Aアルベラ慰霊碑(パラナスの丘) 昭和45年4月18日建立
   斉藤支隊(5316部隊 第1大隊 第2大隊・5315部隊 第2大隊・5314部隊
   第2大隊)がパラナス川を挟んで壮烈な争奪戦を展開した場所 血染めの
   竹藪陣地 ダムランの戦闘として戦記では取り上げられている
   現在は道端に現地人が建立した記念碑があり、その横の 田んぼの畦道を
   東へ100m小高い山 パラナスの丘に到達するが その山頂に慰霊碑はある
 
 Bタリサヤン慰霊碑 昭和52年4月30日建立
   泉師団 上陸後最初の師団司令部や野戦病院があった場所
   タリサヤン川を車で渡河し ぬかるみ道を500メートル東へ 右の丘の上に
   慰霊碑はある
   前日に雨でも降れば タリサヤン川は増水し 渡れないときもある
 
 Cダナオ湖慰霊碑 昭和59年4月28日建立
   今堀支隊が 上陸後最初に敷陣した場所 泉師団将兵が 最終カンギポット
   集結命令を受けて 通過した所で 大半は此の場所で陣没したと伝えられている
 
 Dカルブコス慰霊碑 昭和56年4月27日建立
   今堀聯隊長が20・7・4 自決された場所、 泉師団が消滅した場所を臨み 
   谷を挟んで150b民家の庭先にある
 
 Eシラット慰霊碑 昭和62年3月8日建立
   カンギポットから直ぐの海岸 海辺の民家の庭先 星兵団遺族の卒塔婆もある
   年々 波で砂浜が侵食され 直ぐの所に波が迫っている 5316部隊第3大隊
   消滅の場所

 Fその他
  〇アルベラ自爆砲        アルベラ市内公園内にある 泉師団使用の自爆砲
  
  〇ブラウエン静岡県慰霊碑  高千穂降下部隊慰霊碑・大阪府遺族会慰霊碑と
    (県知事揮毫の慰霊碑)  並んであるブラウエンからダガミに行く幹道の西側
             H22・01現在 高千穂部隊 大阪府遺族会の慰霊碑は撤去されている
  〇オルモック岐阜県記念碑   オルモック市内の高台 以前は慰霊碑であったが
                     お祀りしてあった ご英霊は 岐阜県護国神社に
                     お迎えし、今は記念碑として地元に寄贈
  
  〇カンギポット慰霊碑      レイテ決戦参戦全部隊の慰霊碑

 ご挨拶
  父は レイテ島カンギポット近くのシラットにて 20610 戦死〈自決)した。
  泉師団(第26師団)傘下の大隊は191110(第4次多号作戦)オルモックに上陸後、
  即 乾坤一擲のブラウエン飛行場群奪還作戦の先遣隊としての使命を帯び参戦進撃
  (和号作戦)、ブラウエン飛行場までは直線距離で20数キロ程度であるが、
  その間にはレイテ島を南北に縦断する脊梁山脈があり、筆舌に尽くし難い峻嶮な崖
  岩登り 谷下りを強いられながらも作戦遂行のため体力を消耗し死力を尽くし11月末
  には所定の位置(ロビ山南 山麓)に進出した。
  後続の泉師団主力は西海岸ダムランの戦闘で戦力を消耗しながらも本作戦の為に
  戦線を離脱し転戦を果たしたのであるが脊梁山脈の山越えに日時を要し結局
  本作戦の斬り込み実施日の127日には到着できず突入には参戦できなかった。
  やむを得ず第3大隊は単独で部隊から選抜した斬り込み隊4人〜5人単位100組を
  連日派遣、初期の目的である飛行場の一角を占拠の大殊勲を打ち立てた。
  しかし この激戦で多くの将兵は この地南ブラウエン飛行場(現地名バユグ)で戦死
  (戦死者名簿から855名の戦死公報)玉砕した。
  その後 第3大隊は日本軍の兵站基地 西海岸オルモックに米軍が逆上陸に伴い、
  急遽この作戦も半ばで放棄中止となり反転に転じ再度和号作戦の殿軍後衛突兵と
  しての使命を受け追撃の米軍と死闘を重ねながら脊梁山脈西方山麓を転進した 。
  この道は泉師団主力が1ケ月前に転進したジャングル道で多くの将兵の戦死遺棄
  遺体があり道標には事欠かず後には白骨街道と呼ばれている。
  20年2月上旬 父は少数の部下将兵とともに自活自戦地域カンギポットの師団司令部
  に到達、白井垣春少佐(ブラウエン飛行場に降下し一時期 戦闘を共にした高千穂部隊
  第3聯隊長)の陣中日誌や部隊将兵を目撃した生還者の話によれば我々も痩せて
  いたが, 第3大隊の兵隊は更に酷く生きた幽霊の如き状態で歩行にもままならないほど
  お気の毒な体であったと証言、記録も残されている。
  しかしこの少数の残存将兵も米比軍との連日の戦闘、飢餓と病魔と斗い乍ら 逐次
  戦死 、6月10日父は部隊将兵の後を追って軍刀にて自決したと知らされた
  (独歩12聯隊副官 東嶋大尉の証言)
  泉師団は東海3県の出身者による郷土部隊故に戦後の関係者の集いも早く昭和32
  前後に相次いで名古屋、岐阜、静岡と歩兵聯隊毎に泉会(戦友と遺族の会)が発足
  した。部隊の国内慰霊祭(昭和33年から現在まで毎年開催)に参拝すると多くの
  ご遺族から息子は兄は主人は如何なる戦跡を経て戦死したのであろうかと 肉親と
  しては当然の疑問を質された。
  それまでは簡単な断続的部隊戦跡を説明した部隊概史はありましたが
  それも生還者の少ない玉砕部隊故に米軍の公刊戦史を引用したものであり、丁度
  其の頃「大岡昇平のレイテ戦記」が発売された時で同じ頃から 長い沈黙を破り関係者
  や生還者による追悼集 戦記回顧集の類が刊行され、 私は父の遺志を継ぎ散華され
  た将兵への想い父への想いを果たす慰霊に尽くすには可能な限り部隊戦史を追跡
  調査し ご遺族にお知らせすることが 今 私にできる最大の慰霊であろうと 昭和40
  年代の後半ごろからレイテ関連書籍の収集 知識の習得 戦史の追跡調査に鋭意努め
  没頭するようになり 他のレイテ参戦部隊の慰霊祭・戦友会・集会なども努めて積極的
  に参加、国内の図書館も随分と戦記本の探索をした。
  今ではレイテ参戦 全部隊の資料を含む戦記書籍は572 冊  付随して大東亜戦争
  関連の戦記本は上記 レイテ関連を含めると2,000冊は超えていると思う。 
  平成12年 私の慰霊活動の集大成として「部隊慰霊集」を自費出版 、静岡県下在住の
  ご遺族を中心に650部 配布した。最後の遺書となった父の手紙(北支 厚和出発時)
  には愛しの部下将兵への熱い想いが書かれており「自分の命など到底考えておられぬ
  生還は期し難い」とある
  この慰霊集の刊行は私にとって 亡き父への最大の親孝行であり、それ以降 レイテ島
  参戦の他の部隊遺児遺族の方に私から資料を提供した方は 400名は超 へている
  かと思う。 中には それを契機に親しくなり我が家にお越しになられた方もおられます。

  以前から皆さんより「私のレイテ文庫」の公開を奨められてきましたが私家版手記の
  類もあり逡巡、この分は作者 著者の氏名は伏して、全てではありませんが 公開する
  ことに致しました
  私の周辺には 現地巡拝が30回〜50回の熱心な方が随分とおられます。私も何時
  かは 将来 あの世の父の許へ参りますが其の時は お父上、「 お父さんの遺志を
  継いで精一杯慰霊活動に努めてきました」と胸を張って 言えると思う。
  当時 大東亜戦争の天王山といわれ  フイリピン レイテ島決戦で散華された8万有余
  の ご英霊に深く頭を下げ て 慰霊鎮魂の誠を捧げ本HPを記述します
        合掌    平成20年8月                遺児   重松 正一