部  隊  関  連  戦  記
  
  レイテ決戦 部隊別戦没者数一覧
                            (日本軍のレイテ島投入兵力と戦没者数
 部 隊 名    投入兵力  転進(概数      戦没者   生 還 者 (概数)
 第35軍直轄部隊     10,932      100      10,682       150
 第1師団     13,542      750      12,742       50
 第16師団      18,608         18,028     ※ 580
 第26師団     13,778        13,158     ※ 620
 第30師団の一部       5,357         5,117       240
 第102師団の一部      3,1 42       50      2,882       270
 第68旅団       6,392         6,302       90 
 歩兵第5聯隊       4,552           4,422      130 
 航空船舶部隊       5,258     1345       3,743       170
 海軍部隊       2,445         2,245       200
 合  計      84,006      2,245     79,261       2,500
尚 レイテ決戦に参戦し米軍に収容された日本軍捕虜は828名と云わている      一般的に終戦後 最終集結地  カンギポットから
  投降した将兵は皆無と伝わっているが 実際は3名存在
本表は 大岡昇平のレイテ戦記より

イテ決戦は 97l戦死、生還者は3lと云われているが 此の数字には甚だ疑問がある 例えば 泉師団は生還者数
620名とあるが(※印) 
レイテからの生還者は実際は 27名である   此の数字の差は  レイテ参戦の為 マニラ港は出港しているが 航路途中のマスバテ島
或いは セブ島に 乗船海没などにより漂着,後に上陸米軍と戦闘し生還した兵士も含まれている広い意味で解釈すれば 係るパーセントに
なるが 実際は 
0.3l以下の生還率となる
尚 垣兵団(第16師団)も
580名生還とあるが サマール マスバテ島などに分散駐留し生還した兵士も含まれている

 レイテ決戦の推移
     当時の 指揮命令系統
        南方総軍  (シンガポール 寺内寿一元帥)
          ↓ 
      
第14方面軍(マニラ 山下奉文大将 参謀長 武藤章中将)
           

       第35軍   (レイテ 鈴木宗作中将 参謀長 友近美晴少将)
          ↓
      
レイテ参戦の各部隊 師団 旅団 支隊 聯隊 大隊
s19年
  10月17
  米軍 レイテ湾 スルアン島上陸
     
18日  レイテ島日本軍に対し艦砲射撃開始
     
19日  第16師団司令部 タクロバンから南西 12キロのサンタフエに後退
     
20日  米軍 4ケ師団 タクロバン パロ ドラグに上陸開始
     
〃    第14方面軍 従来の方針を変更し レイテ決戦に変更
    
22日  ドラグ地区 歩兵第20聯隊 殆ど全滅 師団司令部もダガミに後退
     
23日  陸海軍航空部隊 レイテ湾の米艦隊に総攻撃開始
            
パロの 歩兵第33聯隊鈴木聯隊長 本部の手兵数十名を率いて 敵陣に突入
             第16師団歩兵3ケ聯隊のうち 2名の聯隊長 戦死  遊兵の発生
      
24日  米軍 ブラウエン3飛行場占領
      
25日  天兵大隊 500名(独混57旅団) 独歩364大隊(独混55旅団1,000名 オルモック上陸
      
26日   豹兵団 歩兵第41聯隊 2,500名 オルモック上陸
      
27日   抜兵団独歩169大隊(1,000名)オルモック上陸
       〃    カトモン山 の歩兵第9聯隊 第1大隊 ダガミに後退
       〃     抜兵団 独歩171大隊(1,000名)  オルモック上陸
      
30日   第16師団の要望による 電信第27聯隊 858名 (内400名は11月1日 第1師団とともに
            陸軍SS艇でオルモック上陸
   11月 
1日   第1師団 主力(10,000名) オルモック 上陸
             今堀支隊(1,400名)     オルモック 上陸
       
2日   第35軍 鈴木軍司令官 セブ島よりオルモックに進出
       
3日   歩兵第9聯隊 ダガミにて米軍382聯隊を迎撃  組織的戦闘は 6日まで続くが 米軍は血の稜線戦闘と呼称
            以降 日本軍は脊梁山脈洞窟陣地に後退
       
5日  第1師団 リモン峠で米軍との戦闘始まる
       11日  第26師団主力(10,000名) 上陸するも 重火器はは揚陸できず
       〃   第1師団 (4,000名)の残部上陸
      
13日  リモン峠に て第1師団野砲第1聯隊 初弾発射
      
15日  第14方 面軍 武藤参謀長 レイテ島から米軍を追い落とすことは不可能と 総軍大本営に進言
            回答 はレイテ戦は決戦中であるの 一言にみ
       〃   豹兵団 歩兵第77聯隊 第3大隊(野中大隊) オルモック上陸後 斎藤支隊傘下へ
      
18日  リモン峠で第1師団の善戦に 米第24師団長を解任し 新たに32師団長と変わる       
      
21日  歩兵第49聯隊 16日以降再再斬り込み隊派遣
     
 23日  東海岸 パラナス丘付近の戦闘で斎藤支隊 善戦 死闘を繰り返す
      
26日  義号作戦 中重男 中尉率いる薫空挺隊 80名ブラウエン飛行場に胴体着陸
      
27日  歩兵第77聯隊一部 パロンボン上陸
  12月  
4日  歩兵第77聯隊 第2大隊 バロンボン上陸
       
5日  夕刻 和号作戦 第16師団残存1,000名北ブラウエン飛行場に斬り込み
     
  6日  午后 高千穂落下傘部隊 第1次462名降下 
        〃   夕刻 独歩第13聯隊第3大隊(重松大隊) 和号作戦 南ブラウエン飛行場斬り込み
            連 日 4・5人単位 の斬り込み隊を70組 派遣 多くは帰らなかったようで 戦死者名簿では 860名戦死
       
7日  米軍第77師 団 西海岸イピルに逆上陸 北上を開始
            
第68旅団 6,800名 サンイシドロに擱座上陸   独歩第380大隊上陸するも重火器の大半を揚陸出来ず
     
  8日  残部の空挺部隊 高千穂降下部隊 430名バレンシアに降下
       〃   
歩兵第77聯隊2ケ大隊 バロンボン上陸
       〃    第26師団斎藤支隊 オルモックに反転命令
      
11 日   青森歩兵第5聯隊高階支隊(上陸時 輸送船2隻が撃沈され多数戦死)
            カモテス支隊 (武井定男大尉) バロンボン 上陸
       〃    日本軍オルモック陥落
      18日   高千穂降下部隊第3聯隊長 白井垣春少佐の軍隊手帳から重松大隊長とマタクバ東北4キロのジャングル
            で遭遇せりと 記録あり    その後重松大隊と行動を共にし 287高地付近で野中大隊と遭遇
      19日  第35軍司令官は 第14方面軍司令官より レイテ決戦の打ち切りの命令を受諾
      20日  高階支隊 リモンガワまで 進出 北上中の米軍と激しく抵抗激戦を展開
      21日  第1師団 カンギポットに向けて転進開始
       〃   南進中の米軍と イピル上陸の米軍 合体
      25日  第14方面軍 レイテ決戦を放棄 自活自戦を命令
      28日  第35軍 参謀高橋公平少佐 和号作戦 先遣隊 重松大隊に対しカンギポット集結と転進に伴う殿軍としての
            使命伝達
20年
   1月 5日   抜兵団 福栄師団長無断で レイテ脱出 西村大隊の護衛付きで
   2月 8日   今堀支隊 カンゴポット着 400名
   2月上旬   重松大隊 カンギポット着(数十名と思われる) 師団司令部 出頭
   3月17日   友 近参謀長セブ島に 転進
     23日   鈴木軍司令官  セブ島転進
   5月末頃    第26師団 200名生存     師団司令部山森主計曹長の手記「想像する旅」から
            手記には   加藤参謀長 今堀聯隊長 東嶋副官 品川工兵聯隊長の名前がある 
   6月10日   父重松勲次少佐はシラドにて自決  東嶋独歩12聯隊副官の証言  
   7月 4日   今堀独歩12聯隊長 自決  東嶋大尉など20名は3班に分かれ行動(司令部への報告のため生管者は)
    
           カンギポットからの東嶋大尉(独歩12聯隊)茶園曹長(挺進第4聯隊 当時は加藤参謀長の当番兵)
           永田勝美(歩兵第77聯隊) 山口喜蔵(第35軍司令部)の各氏4名

           書籍により違いがありますが 20年2月 カンギポットに集結した日本兵は
                      20,000名
                      15,000名
                      12,000名  という記述が存在  少なくとも 10,000名以上が生存


 レイテ決戦 参戦   全部隊 総覧
イテ参戦全部隊の戦史 戦記 資料は部隊によって差はありますが 可能な限り励み収集しています
特に部隊名が 
 表示は充実 尚 備考欄の 月日 地名は当部隊の主たる 戦死公報(一括認定)を表記、  

部隊名の後の @ A B  Cは別途の資料所有 (レイテ文庫欄参照) 
  部  隊  名           戦時通称号   編成地  備考(戦死公報の集中している場所月日)  
第16師団 司令部
 
@C
 6551 京都 師団総勢18,608
 
関係書籍多数 レイテ文庫参照
 歩兵第9聯隊
 @
垣 6554 敦賀 19・10・23 パロ19・12・08 ブラウエン
 歩兵第20聯隊
 
@
垣 6555   
福知山
19・10・21 ドラグ ・19・10・22 ドラグ 
20・02・01 ロビ  
 部隊史蔵書
 歩兵第33聯隊
 @ A
垣 6556 19・10・23 パロ    部隊史蔵書
 野砲兵第22聯隊 垣 6558 京都 20・04・01 カンギポッ
 工兵第16聯隊
 
@
垣 6559 京都 19・10・18 パロ高地・ 19・11・05 ダガミ西方高地等
19・12・08 ブラウエン 部隊史蔵書
 第16師団通信隊
 
@
垣 6560 京都               部隊史蔵書 
 輜重兵第16聯隊
 
@
垣 6561 京都 19・11・05 ダガミ・  20・07・15 カンギポッット
 第16師団兵器勤務隊
 
@
垣 6562 京都  
 第16師団第1野戦病院 垣 6564 京都 19・12・10 タリサヤン 
 第16師団第2野戦病院 垣 6565 京都  
 第16師団第4野戦病院
 
@
垣 6567 京都 19・10・20 タクロバン
 第16師団防疫給水部
 
@
垣 6569 京都 20・07・15 カンギポット
 第16師団衛生隊 
 @
 
垣 6563 京都 20・03・01 カンギポット
 第16師団病馬廠 垣 6568 京都  
 独立戦車第7中隊 垣 17658 津田沼 垣兵団配属
       
第1師団司令部  320名
 
@C
玉 5912 東京 師団総勢13,542人  20・01・14 カンギポット  
関係書籍多数
 歩兵第1聯隊 2,500名
 @
  
玉 5914 東京 20・07・01 カンギポット
部隊史蔵書
  歩兵第49聯隊  2,500名 玉 5915 甲府 19・11・20 リモン ・ 20・07・01 カンギポット
部隊史蔵書
 歩兵第57聯隊  2,500名
     
玉 5916 佐倉 19・11・13 リモン外 部隊史蔵書
戦死者名簿所有
 捜索第1聯隊   240名 玉 5918 東京 20・07・01 カンギポット
  野砲兵第1聯隊 1,900名
玉 5920 東京 19・12・02 リモン・ 20・03・14 カンギポット 
生還者手記あり
 工兵第1聯隊   690名  5921 東京  
  第1師団通信隊  260名  5922 東京  
  輜重兵第1聯隊 1,250名 玉 5923 東京 19・12・07 リモン・ 20・07・01 カンギポット
生還者手記あり
 第1師団兵器勤務隊 85名 玉 5924  東京  
 第1師団第1野戦病院  170名 玉 5926 溝ノ口  
 第1師団第4野戦病院  180名 玉 5929 東京 20・07・01 カンギポット等
 第1師団病馬廠  50名 玉 5930 溝ノ口  
 第1師団防疫給水部 110名 玉 1201 東京  
 第1師団制毒隊 玉 5917 東京  
 独立戦車第1中隊 撃 12094   玉兵団配属
 独立戦車第2中隊 撃 12991   玉兵団配属 
       
第26師団司令部
   レイテ生還者2名 @C
5311 名古屋 師団総勢 13,788人
20・07・01 カンギポット・ 20・07・03 カルブコス

関係書籍多数  別記レイテ文庫参照
 独立歩兵第11聯隊第2大隊
     レイテ生還者5名  @
泉 5314 名古屋 19・12・20 アルベラ
部隊史蔵書
 独立歩兵第12聯隊 
       レイテ生還者15名

      
マスバテ生還者87名@A
     
泉 5315 岐阜 19・12・10 オルモック  20・01・03 オルモック
20・07・03 カルブコス

部隊史蔵書   戦死者名簿所有
 独立歩兵第13聯隊
      
レイテ生還者3名
       セブ等 生還者100名
 @
泉 5316 静岡 19・12・20 アルベラ  19・12.22・ ブラウエン
部隊史蔵書 戦死者名簿所有
 独立野砲兵第11聯隊  
     レイテ生還者2名@
泉 5318 名古屋 20・01・10 オルモック 
生還者手記
 工兵第26聯隊 
       
レイテ生還者1名@
泉 5319 豊橋 19・12・22 ブラウエン
 第26師団通信隊
           レイテ生還者1名

        @
泉 5320 名古屋 20・02・22 ドロレス  19・12・15 ルビ
20・02・25 ドロレス
 
部隊史蔵書   戦死者名簿所有
 輜重兵第26聯隊 
       
レイテ生還者3名
           
 @
泉 5321 名古屋 部隊史叢書  戦死者名簿所有
 第26師団兵器勤務隊
         
レイテ生還者1名 @
泉 5322 名古屋      
 第26師団野戦病院
           レイテ生還者2名 
@
泉 5324  名古屋 20・01・03 タリサヤン
 第26師団病馬廠
           レイテ生還者2名 
@
泉 1194  名古屋 生還者手記 
 独立工兵第65大隊 930名 威 6089 高槻 20・03・17 カンギポット
ご遺族の調査 書籍あり
  第138兵站病院 威 9706 福岡 20・04・07 カンギポット 
生還者書籍あり 
部隊史蔵書
第26師団配属
       
第102師団司令部 抜 10630 ビザヤ
諸島 
師団総勢 3,142人
20・06・30カンギポット
山付近
  第102師団砲兵隊の大部第1・第2中隊 
 
@C
抜 10696 熊本
  第102師団工兵隊の 一部 
  第2・第3・第5・第8中隊
 
  
@
抜 10697  熊本  20・01・15 カンギポット  20・05・07 アビハオ
20・06・30 カンギポット
  第102師団輜重隊の半部・  第1中隊
  
@
抜 10698  熊本  20・07・30 カンギポット
  独立歩兵第169大隊 (通称 西村大隊
  
  25名セブ転出 @ A
  
抜 10631 鹿児島 20・04・22 リモン峠  19・11・21・カリガラ
19・11・22 カリガラ  19・11・23
カリガラ南方ピナ山
20・06・30 カンギポット・ 20・01・06 ビリヤバ
   
調査資料あり
  独立歩兵第171大隊 @
 (通称 田辺大隊) 
抜 10633 鹿児島 20・6・30 カンギポット
  歩兵第78旅団通信隊 抜 10694 名古屋 20・6・30 カンギポット
  第102師団防疫給水部
  @
12424 熊本  20・06・30 カンギポット
       
第30師団野砲兵30聯隊
  工兵30聯隊の一部
 C
  平穣  師団総勢5,357人
20・02・20 カンギポット

部隊史叢書
  歩兵第41聯隊 豹 12023 福山 20・07・15・ ビリヤバ北方20キロ  
書籍蔵書あり
  歩兵第77聯隊 豹 12025 朝鮮
平壌
20・03・10 ナグアン山・20・08・05 ナグアン山
20・07・01 ナグアン山
  
生還者の手記あり
       
独立混成第55旅団C  17607  弘前 仮編成後 マニラにて再編
  独立歩兵第364大隊  17609  秋田 20・06・30カンギポット山付近
       
独立混成第57旅団   モマ05船団10・10 
大彰丸乗船門司港出発
  独立歩兵大隊レイテ派遣隊
  (通称 天兵大隊)
 16300   20・03・17 カンギポット
       
独立混成第58旅団 C
7203 弘前 ネットに部隊史説明あり 
(主としてルソン戦記) 
  独立歩兵第380大隊 7206 弘前 通称関大隊 1,285名戦死
生還者4名
  旅団砲兵隊第6中隊 盟 7207 弘前  
  旅団工兵隊1個小隊 盟 7208 盛岡   
       
第68旅団司令部  
         
生還者 90名C
  
星 10001  
満州
公主嶺
旅団総勢 6,392人
部隊史蔵書
  歩兵第126聯隊 
         
@ A
星 10005   〃 20・07・17 ビリヤバ
  第68旅団砲兵隊 星 10006   〃  〃
  第68旅団工兵隊 星 10004   〃   〃
  第68旅団通信隊 星 10003   〃  20・06・30 カンギポット
  第68旅団衛生隊 星 10007   〃   〃
       
第8師団 弘前 師団総勢4,552人
レイテ文庫参照
  歩兵第5聯隊C 杉 4715 弘前 20・06・30 カンギポット 
部隊史蔵書 生還者 将校1名 兵士9名  計1
  野砲兵第8聯隊 第1大隊 杉 4738   〃  20・06・30 カンギポット
  工兵第8聯隊  第1中隊 杉 4748 盛岡 20・06・30 カンギポット
  輜重兵第8聯隊第3中隊 杉 4768 弘前  20・06・30 カンギポット
  第8師団第4野戦病院の一部 杉 4794   〃  20・06・30 カンギポット
       
第2挺進団( 通称 高千穂落下傘部隊C 威 19040  宮崎
多数の資料あり
  挺進第3聯隊 @ 鸞 9948   〃 19・12・06 ブラウエン外
  挺進第4聯隊 @ 鸞 9949   〃  生還者手記 
遊撃第1中隊(通称 薫空挺隊) 尚 1781   19・10・25・
       
飛行場関係部隊    
  第34航空地区司令部(通称 新田部隊)
  
@AB   
威 18488   司令部総員40名
19・10・30 ブラウエン・19・12・06 ブラウエン
飛行場付近
   第54飛行場中隊(通称 熊沢部隊)
   
@AB
威 16654   台湾
19・10・30ブラウエン
飛行場付近 
   第98飛行場大隊
   
@AB
威 16,698 満州
杏樹
 
19・12・06ブラウエン飛行場付近
   第114飛行場大隊 
   
@ABC
威 16645  満州
海浪 
19・10・19 ブラウエン飛行場
19・10・29 ブラウエン
飛行場付近
   第6航空通信聯隊
   
B
尚武 9942    
   第8航空通信聯隊 羽 16608    
   第10航空情報聯隊  18916    
   第2航測聯隊  16612    
   第22野戦気象隊(総員 30名)
   
AC
 11650  マニラ 
タクロバン18名・オルモック12名
   第3野戦飛行設定司令部
  
 通称神部部隊 総員100名 B           
威 15319 豊橋 ドラグ飛行場に展開
   第2特設野戦飛行場 設定隊
  
(通称富部部隊)B
威 15310 内地
仮編成
ドラグ飛行場
 
   第11特設野戦飛行場設定隊
     総員 50名 
B         
洋 9303  20.7.1
       
特設第63機関砲隊 
  
 B
威 2193 市川  調査資料あり
   〃  65  〃  
  @BC     85名
威 2195 市川  生還者 2名
 生還者の手記
   〃  66  〃C 威 2196    
   〃  67  〃 
   
B
威 2197    
   〃  70  〃 
  B
威 12460   玉兵団配属
20・03・17 カンギポット
   〃  71  〃 
  
AB     110名
威 12461   玉兵団配属
   〃  72  〃C 威 12462   19・11・10 オルモック湾海没
19・11・10 高津丸乗船 戦死公報
       
第3船舶輸送司令部 
  
@C
暁 2944   セブ島
   第15揚陸隊第2中隊
  (通称 松井部隊
暁 16705   20・05・20カンギポット 
生還者の手記あり
   船舶工兵第21聯隊 
     生還者 3名 @C
暁 16717   20・07・01 カンギポット
  船舶工兵第1野戦補充隊
  
@ 
暁 6142     部隊史蔵書
  船舶工兵第28聯隊 
  @
C
暁 16757    
  船舶工兵第19聯隊 C 暁 16703    
   機動輸送第8中隊 暁 16732   19・12・15 バロンボン方面
       
野戦高射砲第76大隊
 第1中隊・第2中隊約600名
 @ABC
威 1970 東京  20・07・01 カンギポット
生還者手記調査資料あり
第1師団傘下 
独立臼砲第21大隊第1中隊・第2中隊C 威 17656   19・12・30 サンイシドロ
独立速射砲第20大隊  威 17655   20・03・17 カンギポット
独立速射砲第25大隊C 威 3325    
独立自動車第63大隊 
第4中隊第2小隊・第3小隊 
AC
威 1742 台湾
屏東
19・12・01 タクロバン 
調査資料あり
独立自動車第316中隊  尚 17620    
独立自動車第317中隊 
       140名  B 
尚 17621   20・03・17 
カンギポット山付近
独立自動車第328中隊 
   140名  @ABC
尚 17632  熊本 11・11 オルモック湾で 海没
調査資料あり
カモテス支隊     1,200名
  臨時歩兵第5大隊 
900名
  臨時砲兵第2中隊 
204名
  臨時工兵1個小隊  
61名
     調査資料あり
伊東海軍陸戦隊  約400名     遺族福田氏の調査報告書 
20・05・20 
カンギポット
第33特別根拠地隊 
   630名  A BC
海軍部隊   セブ  
20・05・20 カンギポッ 
第95防空隊  230名C     第35軍直轄
20・05・20カンギポット
 
生還者部隊資料
海軍第36警備隊 
      レイテ生還者1名
生還者手記あり
第98播州丸に乗船19・10・19
ビリラン島近海で海没戦死
第311海軍設営隊 
  
   550名 AB
  19・10・16 オルモック
海上挺進基地
第10大隊及び戦隊
 
  20・07・01 カンギポッ
19・10・26 大彰丸 バブヤン島西方沖
に戦死公報
独立有線第96中隊 
 
   76名 @
尚 3177 満州
孫呉
19・12・20 
重松大隊に食糧を渡した記録
独立無線第109小隊
 
 @
尚 12390  内地88
部隊 
 
独立無線第130小隊
  
@
尚 12991  満州
孫呉
 
       
戦車第2師団 C      
 戦車第6聯隊第1中隊  撃 12094     
 戦車第10聯隊第1中隊  撃 12098    聯隊史 蔵書 
       
第35軍司令部AC 尚 18200 マニラ  20・07・01 カンギポット山麓
  第14方面軍野戦兵器廠 尚 10680   軍司令部 直轄
一部はマスバテ島にて終戦 
部隊史あり
  第14方面軍野戦貨物廠
 及び傘下の第1開拓勤務隊 C
尚 10682    第1開拓勤務隊は第3次多号
作戦 泰山丸他に乗船し海没
その他三笠丸に乗船11・11
戦死公報の方あり
関係書籍あり
  第14方面軍自動車廠 威 10681   19・12・19 ナギハリム 
部隊史あり
 電信第27聯隊本部  
 電信第3・第4中隊 

    858名中 生還者 6名  
@C
威 2527 満州  直轄  20・06・05 カンギポット 
部隊史資料あり
 臨時陸上勤務第1中隊 
 
@
尚 10455 マニラ  直轄  20・03・17 カンギポッ
       
その他
レイテ島以外で充実している 部隊戦史 
     
パナイ島駐留
 独立歩兵第170大隊
抜 10632 熊本 多数の資料書籍蔵書
生還者 熊井副官  佐藤さんから受領く
 多号作戦で活躍した
  
赤城山丸 A
    ご遺族の調査資料あり
バシー海峡で海没した
  ヒ71船団 玉津丸
 A
    19・08・19バシー海峡で海没し
乗船将兵4,800名が戦死した
 
玉津丸の悲劇 多数の書籍蔵書
輸送船関連 船員戦没者 
書籍はレイテ文庫(B欄
    書籍 72冊

レイテ戦 海軍地上隊と陸軍航空地上隊の戦史
 以下はレイテ戦に参戦しているがあまり戦史にも登場しない 諸部隊の戦闘状況である

33特別根拠地隊タクロバン派遣隊
  第33特別根拠地隊(原田少尉)は昭和198月セブ市にて編成、第3南遺派遣隊(大川内中将)傘下
  当時レイテ島タクロバンにはサンホセ北飛行場を中心に次の海軍諸隊が展開集結していた
  第95防空隊 260名 高射砲4、25ミリ機銃5、第103施設隊50名、台湾巡査隊約80名、
  その他航空隊 砲兵隊16名 気象隊6名、軍需部 通信隊15名、工作部 海洋上陸隊など
  10
月上旬 33特根 第36警備隊、竹下宣豊大佐がタクロバン派遣隊長となり赴任途中、空爆により海上
  戦死 後任に竹谷忠大尉が着任した
  1020日米軍はタクロバン上陸に当たり 海軍タクロバン派遣隊は陸軍第16師団
  歩兵第9聯隊(神谷大佐)指揮下にはいりサンタフエとパストラナ間に布陣、圧倒的優勢の米軍水陸両用
  戦車群に対し保有1万発の全弾を撃ち尽くし3日後に700名が戦死、
  残員350名は撤退を始めハロ→ダナオ湖を経由して126日オルモックに到達した
  第35防空隊生存者は陸軍高射砲76大隊の指揮下にい入り127日イピルに逆上陸してきた米軍と抗戦
  全滅した

311海軍設営隊
  昭和195月 編成完結 呉市にて隊長海軍技術大尉 以下550
  本部第1中隊(機械 電気)第2中隊(土木)第3中隊(建築)台湾巡査隊(警備80名)
  遂行品(兵器)対空機銃 軽機関銃若干 小銃
  資材は貨物自動車約20台 牽引車 砕岩機 コンプレッサー コンクリートミキサー ダイナマイト カーリット
  セメント木材 ツルハシ スコップ モッコ各種工具類など
  300代の番号が頭に付く設営隊は昭和19年5月から軍人設営隊として編成された部隊で現役の兵は
  少なく殆ど30代前後の補充国民兵で職工 大工 左官 鍛冶工などが多かった
  6月14日 呉出港 6月20日門司(ヒ67船団) 6月30日マニラ、8月1日オルモック着
  8
月上旬バレンシア地区に部隊は展開、以降オルモック川西方草原に飛行場造成、付属施設の建設
  作業開始 現地人を多数使役する
  8
月末 滑走路 誘導路 見張り所  指揮所略完成 95日バレンシア飛行場造成工事中止命令
  タクロバンの対岸カピネ岬(サマール島)に特攻艇 震洋の秘密基地(洞窟)工事命令、直ちに撤収
  移動準備
  8
月上旬 台湾巡査隊 警備要員として残置 膨大な資材 物資とともにバレンシアから カリガラ タクロバン
  陸行1016日 カピネ着 直ちに作業開始  カビネ 岬は343メートルの岩山断崖下にあり 洞窟工事
  難工。 隊長は 片桐中佐。
  10月20日、米軍レイテ侵攻上陸,以降第311設営隊消息を絶つ
  12月17日 バレンシア飛行場米軍侵攻、台湾巡査隊全滅、※2名脱出、内1名は35司令部に収容され
  セブ帰着報告。
  海軍設営隊の慰霊碑は呉市の長鎖迫基地公園に戦友会が建立

レイテ島展開航空地上諸隊

 ○第34航空基地司令部(威18488

  新田正義中佐、昭和1968日、編成。

 ○第98飛行場大隊(威16698
  荒木隆少佐 昭和19430日満州三江省杏樹にて編成、 52日杏樹出発528日マニラ上陸
  63日 レイテ島ブラウエン飛行場展開

 ○第54飛行場中隊(威16654
  熊沢一正大尉、昭和19430日、台湾編成、7月中旬レイテ島ドラック飛行場展開

 ○第114飛行場大隊(威16645
  南田多治郎少佐、昭和1941日編成完結 (満州牡丹江省 海浪飛行場) 大隊本部 補給中隊
  警備中隊人員約350名。
  装備は小銃約200、軽機関銃 重機関銃若干 20ミり高射機関砲 乗用車 側車 始動車 牽引車
  投光車など数台 自動車10余台
  5
2日海浪出発 58日 釜山出発、513日門司出発、520日高雄入港、528日マニラ入港上陸
  6
3日マニラ出港。65日セブ入港 待機 617日レイテ島オルモック上陸、第34航空地区司令部
  指揮下に入る、
  6
20日ドラッグ飛行場到着 部隊展開、飛行場造成作業(滑走路完成済み 主として誘導路作業)
  周辺警備 ゲリラ警戒、
  8
2日飛行第45戦隊(襲撃機14機) サンパプロ飛行場到進出展開、
  9
12日米軍機レイテ初空襲、921日米軍機マニラ初空襲、以降各地連日空襲あり、飛行第17戦隊
  一部の戦闘機がサンパブロ飛行場進出協力、

 ○第3野戦飛行場設定司令部(威15319
  神部千三少佐 設営隊100余名。昭和19428日ダバオ到着、717日タクロバン上陸 ドラグに展開

 ○第2特設野戦飛行場設定隊(威15310
  富部明中尉 以下50名、昭和19717日タクロバン上陸、ドラグ展開

 ○第11特設野戦飛行場設定隊(威15319
  レイテ島 ブラウエン 第1 第2飛行場設定 永渕五郎技師以下50

 ◎其の他レイテ地区に展開した航空部隊
  第6航空通信聯隊 第8航空通信聯隊 第10航空情報聯隊 第2航測聯隊 第22野戦気象隊
  マニラ陸軍航空廠第2修理廠の一部の各隊が飛行場を中心に展開
 ○新田部隊(米軍上陸により航空諸隊は33航空地区司令部・新田中佐の指揮下 地上戦に参加殆ど
  玉砕した)昭和191019日、第34航空地区司令部の諸隊は第16師団指揮下へ
 ※各隊所在地 地区司令部=タクロバン 98飛行場大隊=ブラウエン北と南飛行場
  114
飛行場大隊=サンバブロ飛行場 54飛行場中隊=ドラグ飛行場 以降各隊集結 新田部隊となり
  地上戦闘へ
  10
21日 米軍10万(後に20万以上)レイテ上陸、比島決戦捷1号作戦発令
  10
22日 連合艦隊レイテ出撃 戦艦武蔵以下空母など24隻沈没、日本海軍大敗 神風特攻隊168回
  出撃 836機玉砕散華。
  10
25日米軍戦車サンバブロ飛行場進攻夕刻)日本軍飛行場北方森林にて防戦
  10
24日 米軍ブラウエン町突入、サンバブロ残存日本軍ブラウエン南飛行場に移動。
  10
25日 新田部隊 ブラウエン北飛行場集結、飛行場南側に陣地構築配備、
  米軍ブラウエン北飛行場攻撃、米軍戦車に対し日本軍は肉薄攻撃(ドラム缶攻撃開始)以降3日間
  圧倒的米軍砲火に反撃、死傷者続出。
  10
29日 日本軍残存者は西方高地に撤退、以降部隊消息途絶全員玉砕。
  ※第54飛行場中隊生還5名と記録あり
  参考資料 厚生省比島方面部隊略歴 防衛庁の公刊戦史 大岡昇平のレイテ戦記 田中賢一のレイテ
  作戦の記録

 ○野戦高射砲第76大隊(威1970
  古庄義明少佐以下約600名、昭和19526日 東京で編制 大隊本部 第1中隊 第2中隊 第3中隊
  装備777a野戦高射砲18門(各中隊に6門) 7月3日門司出航モマ03船団 (輸送船7護衛艦1)
  に分散乗船
  7
17日マニラ上陸 マニラ高射砲司令部(松岡中大佐)指揮下へ
  マニラ港埠頭 飛行場など防空任務  以降連日対空戦闘 1020日米軍レイテ島上陸 捷1号作戦発令
  11
18日第3中隊マニラ港出航ネグロス島へ 1121日バコロド着
  11
25日本部 第1中隊 第2中隊 400余名マニラ出港レイテ島へ(多号作戦第7次輸送 陸軍機動艇
  海軍輸送艦) 出港時 古庄大隊長受傷入院 米福大尉大隊長代理となる
  11
30日 第1中隊の乗船サンイシドロ沖で米艦砲撃により沈没全員海没戦死
  11
30日本部 第2中隊 イピル上陸 光井治大佐指揮下へ 高射砲第76大隊は同地到着の特設機関砲隊
  (第63 第65 第67)は海軍高射砲を併せ指揮、オルモック防空隊長となりイピル オルモック沿岸に陣地
  構築布j陣  
  12
7日米軍イピル上陸以降水平射撃により反撃交戦するも圧倒的米軍の物量攻撃に砲は爆破され 
  山岳地に後退、残兵は脊梁山脈を食なく薬無く雨中山中を北進 彷徨の末  高射砲大隊は消滅した
 ○特設第63機関砲隊(威2193
  軍歴不詳  光井船舶部隊配属  イピル玉砕
 ○特設第65機関砲隊(威2195
  大平和雄中尉 以下85名 昭和19928日 市川にて編制 103日宇品出港 1026日マニラ上陸
  11
1日オルモック上陸 光井船舶部隊指揮下 127日イピルの戦闘にて玉砕
 ○特設第67機関砲隊(威2197
  福島宗一少尉以下 軍歴不詳 第35直轄 カナンガにて玉砕
 ○特設第70機関砲隊(威12460
  小谷英正少尉 以下第1師団配属 軍歴不詳 第71機関砲隊と同様
 ○特設第71機関砲隊(威1246
  大川英二中尉 昭和19930日編成 110名  指揮班 3個小隊 高射機関砲12門 10月3日宇品出港
  10月6日上海寄港 船舶砲兵第1聯隊協力 第1師団輸送護衛に務む 1019日上海呉松出港
  (能登丸 金華丸 高津丸 香椎丸に分乗) 1027日マニラ到着 1031日マニラ出港
  (多号作戦第2次輸送)
  11
2日オルモック上陸 第1師団直轄部隊 11月中旬カブラン南方水道坂陣地構築 12月下旬戦闘玉砕
○独立自動車第317中隊(威17621
  昭和196月編成完結 千葉の気球隊兵舎 八木橋中尉以下140名指揮班 3個小隊 修理班 
  貨物自動車約40
  7
月1日門司出港 719日マニラ上陸 レイテ島ブラウエン飛行場着 第3野戦飛行場設定司令部
  (神戸千三少佐)指揮下へ 飛行場造成作業
  ※当時ブラウエン地区には三ケ所の飛行場を造成中(ブラウエン北・南・サンパブロ)
  米軍の比島進攻機運切迫により、飛行場早期完成の必要から同地警備の第16師団から毎日550名の兵員
  が応援
  現地住民も多数稼動され人力によるモッコ スコップの作業が昼夜兼行で続けられていた
  同地担当の飛行場部隊は34 航空地区司令部の第98 第114 第54飛行場大(中)隊と
  第3野戦飛行場設定司令部の2 第11特設野戦飛行場設定隊の二隊であった

    1019日米軍艦700隻 レイテ湾進攻 天地を揺るがす艦砲射撃 空爆開始 独立自動車317中隊は
    第16師団直轄となりキリンに集結。以降米軍砲爆撃下 後方と前線間の兵器 物資の輸送業務
    10
20日 米軍4個師団10万タクロバン平野上陸、捷1号作戦開始、圧倒的な火力と兵力を背景に
    上空は飛行機戦車を先頭の米軍に第16師団は各地で爆砕され3日間で第一線後退,22
    第16師団司令部は ダガミに後退独立自動車317中隊戦死戦傷者続出
    10
31日 米軍ダガミ進攻 司令部ロビ山に転進 独立自動車317中隊は全車両を失い残存将兵は
    司令部に続き山中に入る
    以降ロビ山 ダナオ湖 ドロレス(1月下旬)リボンガオと山中を北進、 リボンガオでは米軍制圧下の
    国道をゲリラと交戦突破 西進、再び山中に入り3月下旬極少数がカンギポット集結地に到着した
    雨季の最中 密林を昼は敵機 夜はゲリラを警戒 食なく 薬なく 傷つき飢え次々と斃れていった。
    カンギポットには何名到着したかは不明 終戦後の生還者も見当たらない 同中隊の戦死公報は
    すべて20317カンギポット戦死と認定処理された模様である。

  ○独立自動車第328中隊(威 17632)
    村山晴夫中尉以下140名 昭和1969日 熊本にて編成 指揮班3ケ小隊 修理班 貨車約40台
    7月6日 大阪出港、 7月25日高雄入港 、8月31日高雄出港、97日マニラ上陸、輸送業務開始
    10
20日米軍レイテ上陸、119日レイテ作戦に参戦のためマニラ出港(午前140分)多号作戦
    第3次輸送、泰山丸  11日泰山丸米機300機の空襲により沈没
    ※独立自動車第328中隊は第34航空地区司令部 新田中佐の指揮下 に入る予定であった。



 〇泉5316部隊の当時の遺族宅への戦死公報及び第3大隊の戦記


 戦後 戦没者宅に通知された戦死公報

 (以下の死亡認定理由書)に部隊戦史について大まかな説明がされているので 原文とおり  ここに記述 紹介します。
  当時のカナ使いで 原文に忠実に模写してあります

    
    死 亡 認 定 理 由 書


     本籍地         〇 〇 県

     所属部隊       独立歩兵第十三聯隊

     階級氏名       陸軍〇〇      〇〇 〇〇

T.認定戦死年月日及場所
                  戦死 年月日    昭和19年〇〇月〇〇日
                   
                  場所          レイテ島   〇 〇

U.認定戦死前後ノ状況(別紙要図参照)
1 「レイテ」作戦前の状況
第26師団ハ昭和12年11月26日北支蒙彊ニテ編成 次イデ昭和19年7月中旬同地出発山海関釜山形経由(準備の為約一週間釜山滞在)比島ニ
向フ 8月19日未明「バシー海峡ニテ敵ノ魚雷攻撃ヲ受ケ「玉津丸」沈没独立歩兵第13聯隊ノ主力(5316)海没セリ 兵団ハ8月22日「マニラ」上陸
(一部ハ船舶ノ故障ニヨリ「北サンフエルナンド」ニ上陸)後10月下旬迄中部ルソン「タルラック」附近ノ警備ニ任ス

 
2 「レイテ島」ニ於ケル行動ノ大要 
兵団ハ先遣支隊(独歩12(U欠)工兵26聯隊基幹)及主力ノ 二ケ梯團ニ別レ先遣支隊ハ10月28日主力ハ 11月9日夫々「マニラ」ヲ出発「レイテ」
島ニ向フ先遣支隊ハ何等敵ノ妨害ナク 11月3日「オルモック」ニ上陸セリ 主力ハ途中空海ヨリスル敵ノ妨害ヲ受ク 1部ハ「マスバテ」 「セブ」島ニ
遭難ス之ガ為メ「オルモック」上陸ノ日時ニ若干差異アリ 当時天候極メテ不良ニシテ「オルモック」湾到着セルモ上陸効程進捗セズ加フルニ敵機及
敵艦ノ妨害アリ之ガ為メ人員ニ若干ノ損害ヲ生ジ 外 装備ノ相当数及軍需品の大部ハ海没シ戦斗力著シク低下ス 兵団は取リ敢エズ
「オルモック」南方地区ニ兵力をヲ集結シ示後前進ヲ準備ス

 
3 「アルベラ」附近の戦斗及「ブラウエン」作戦準備
兵団ハ11月12日軍命令に基キ 「バイバイ」ノ敵ヲ攻撃スベク斉藤支隊(独歩13)主力11ノ小笠大隊ヲ派遣ス 同隊ハ「アルベラ」南方地区ニ於テ
有力ナル米軍ト遭遇ス此ノ間 兵団ハ逐次兵力ヲ集結シ一部ヲ以テ「ブラウエン」作戦ヲ準備即チ工兵隊ハ全力ヲ以テ作戦路ノ啓開ニ任ジ 
11月15日ニハ 独歩13ノV(長 重松勲次少佐)「ブラウエン」攻撃ノ為メ出発ス 
次イデ軍ノ和号作戦ノ企画明カトナリ11月30日司令部ハ[ルビ」ニ移動シ該方面ノ地上攻撃ヲ指揮ス 斉藤支隊は執拗ナル敵ノ攻撃に対シヨク
「アルベラ」附近ヲ保持シアリシモ敵ノ師団ヨリスル浸透ニヨリ包囲セラル加フルニ12月7日米軍「オルモック」湾「イピル」上陸スルニ及ビ
「ブラウエン」作戦中止セラレ該方面作戦部隊ト斉藤支隊トハ全遮断分離ノ状況トナリ常ニ米軍ノ攻撃ニ対シ猛烈果敢ナル戦斗ヲ続行シアリシモ
支隊ハ遂ニ12月20日未明最後ノ攻撃を実施セルモノノ如ク消息ヲ絶ツニ至レリ

 
4 「ブラウエン」飛行場の戦斗
本戦斗ハ「垣兵団」空挺部隊(高千穂)トノ協同作戦ナリシモ進路嶮峻ノ為「ルビ」方面ヨリノ作戦部隊ノ「ブラウエン」進出やや遅延シ予期ノ如キ
成果ヲ収ムル能ハザリキ即チ重松大隊ハ数次ニ渡リ奇襲強襲ヲ続行シ第3次攻撃ヲ以テ「ブラウエン」飛行場を占領セルモ敵ノ反復攻撃熾烈ニ
シテ之ガ確保至難トナリ遂ニ「ブラウエン」撤去ノ止ムナキニ至レリ 12月12日部隊ハ「タリサヤン」集結ノ為メ転進開始ス 是ヨリ先 12月8日頃 
米軍ハ「ルビ」 「ブラウエン」中間地区ニ空挺部隊ヲ降下セシ為メニ転進部隊ハ「ブラウエン」西方約10粁付近ニ於テ進路ヲ阻止セラレ密林中
不期戦斗ヲ惹起コシ混戦ノ後12月22日頃以降 重松大隊ハ全ク主力トノ進路ヲ絶チ該方面ノ状況詳カナラザルニ至リ

 
5 兵団主力「タリサヤン」集結ノ状況
兵団主力ハ12月25日ヨリ「タリサヤン」附近ニ集結ヲ開始ス 兵団ハ相次グ戦斗ニヨリ歩兵部隊トノ連絡ヲ失ヒ20年1月1日現在ノ集結兵力 
1千余名ニ減ズ当時ノ集結部隊ノ主ナルモノ左ノ如シ師団司令部 師団通信 師団兵器勤務隊 野戦病院 病馬廠ノ主力独立野砲兵第11聯隊
 輜重兵第26聯隊ノ一部歩兵部隊ノ残余者(註 野砲 輜重 野病、ハ「オルモック」「アルベラ」間ノ資材輸送並ニ患者ノ収療等ノ為メ相等ノ
損耗アリシモ明カナラズ同地ニ 於テ兵団ハj若干ノ編成装備ヲ整ヘ北部「レイテ」ヘノ転進整備ヲ為セリ20年1月3日項ヨリ数次ニ亘ル敵ノ
空陸ヨリスル攻撃ニヨリ「タリサヤン」東方地区ニ集結中ノ野戦病院(患者ヲ含ム)輜重兵第26聯隊ハ玉砕セリ

 
6 「シラッド」集結迄の状況
20年1月3日兵団ハ米軍ノ包囲ヲ突破シ「タリサヤン」出発1月10日「ダナオ湖」西地区ニ於テ「垣」兵団ニ追跡スル敵と遭遇之ト交戦シ
 師団通信隊ノ大部ヲ失ウ20年1月20日「バレンシヤ」飛行場ニ突入之ヲ占領スルモ猛砲撃ノ為メ多大ノ損害ヲ受ケ特ニ司令部関係ノ損傷
大ニシテ兵団長及幕僚悉皆重傷(一部戦死)セリ1月23日同地発 「リボンガオ」ヲ経テ軍ノ自治地域タル「シラッド」附近ニ前進シ途中地形ノ
嶮補給ノ困難等ノ悪条件ヲ屈服シツヽ2月11日「カンギポット」山ヲ通過 「シラット」ニ到着シ同地ニ於テ先遣支隊(独立歩兵12(U欠)ヲ掌握ス
先遣支隊ハ11月3日「オルモック」上陸後「ラマオ」山ニ進出
不断ノ挺進奇襲ヲ以テ「ハロ」方面ヨリスル 敵ノ前進ヲ制シアリシモ12月7日米軍「オルモック」湾逆上陸ニ伴ヒ軍命令ニヨリ反撃作戦ヲ実施シ
20年1月3日迄「オルモック」東南地区ニ於テ所在部隊ト共ニ勇戦奮斗シタルモ遂ニ敵ノ突破スル所トナリ軍ノ自活地域ニ 転進ス 
此ノ間 立石大隊玉砕シ兵力2割程度ニ減ズ 支隊ハ1月15日「ナグアン山」附近ニ 於テ「バロンボン」ニ上陸セル米軍ノ攻撃ヲ受ケ通信中隊
全滅シ2月11日「シラット」兵団司令部ノ追求時ノ僅カ5、60名ニシテ同地域集結時ノ兵団全将兵力ハ約450名ナリ 2月15日兵団長山県
中将戦死ニ伴ヒ軍命令ニヨリ沖少将兵団長トナル

 
7 「シラット」集結並ニ其後ノ状況
「シラット」附近集結ト同時ニ自活自戦ノ態勢ニ移リ持久戦ヲ準備シタルモ数次ノ砲爆撃ノ為メ逐次戦力消耗ス殊ニ20年3月10日米軍ノ
猛攻ニヨリ独立野砲11聯隊及ビ兵器勤務隊ハ最後的突撃ヲ敢行シ全員玉砕セルモノノ如シ示後逐次米軍ノ攻撃ニヨリ兵力愈々消耗シ
最後ノ複廓タル「カルブコス」山ヘ移動 当時兵力ハ約6、70名なり「カルブコス」ニ対スル米軍ノ最後的攻撃ハ7月3日ニシテ兵団残存者ハ
軍旗奉焼最後ノ突撃を実施セルモノノ如ク全ク 消息ヲ絶チ終戦ニ至レリ


V採リタル捜索手段
終戦後米軍ノ援助ニヨリ「レイテ」島内兵団主戦場附近ニ再度捜索員ヲ派遣セルモ遂ニ生存者発見シ得ズ

W死亡認定ノ理由
戦況第U項ノ如ク又捜索ニ関シテモ種々手段ヲ尽シタルモ生存者発見セズ且比島方面ノ復員完了シ抑留者名簿等ト照合セルモ 該当者ナク
従テ比島方面ニ残存ノ事実ナキト推断セラルルヲ以テ第U項ノ時期地點ニ於テ各々最後 ノ突撃ヲ決行シ全員玉砕セルモノト認メラル 但シ
戦況ノ推移極メテ複雑ニシテ各地點時期ニ於ケル戦死者ノ確認困難ナル 実情ニアルヲ以テ所属隊 不明ノ者ハ各上級部隊の玉砕日地點ヲ
以テ戦死ヲ 認定セリ
                               
      昭和22年7月10日    第14方面軍残務整理部長  久米川 好春
 

26師団 独立歩兵第13聯隊 第3大隊の戦史
戦時通称号 泉5316部隊
師団の創生
昭和131月 当時満州にあった独立混成第11旅団を基幹として師団に編成昇格、よって部隊名には独立の「冠名」が設けら
れている。師団は以降 中部第3部隊を経ての補充兵を以って編成されていたが、15年以降は更に独立歩兵第11聯隊は愛知県、
12聯隊は岐阜県、第13聯隊は静岡県出身者で補充編成されるようになった太平洋戦争勃発時は駐蒙軍の中核として師団は
北支 大同地区を拠点に駐留し多くの治安作戦に参戦した師団に対し南方戦線(対米戦線)参戦の命を受けてたのは 19年の
7月である。捜索聯隊を除く師団全てが鉄路南下し釜山港から乗船 一旦内地 伊万里港、 一部は門司港に寄港後 当時としては
最大級の船団を以って出港したこの船団を「ヒ71船団」と称し文字通り フイリピン輸送の71番目船団という意味である

北支(厚和地区)駐留から転進し南方戦線(対米戦線)レイテ島にて玉砕までの部隊戦史
 
19・07・06
泉師団への南方戦線への参戦命令は 多くの戦記や戦史では77日なっているが、父からの手紙 (76日付け)では3大隊
73日討伐作戦(河南作戦)の為 駐屯地 厚和を出発、折りしも非情なる重大命令に接し翌4日帰着、目下準備に忙殺中と
ありこの時点で既に大命は通知されていたと思わられる
エンピツ書きのこの手紙の末尾に寸暇を惜しんでこの手紙を書いているが 出発までには今一度手紙を出す、いずれにしても
今回の出撃は「生還は期し難いと あり」  覚悟の程が示されている

 
19・07・14

7
14日付けの手紙では営庭にて第3大隊千数百名の軍装検査を実施とあり母宛てには今後の私たち兄弟の将来について、
又 私、 弟 夫々分別してカタカナにて父亡き後の行く末について書かれている


19・07・22
聯隊は3梯団に分かれて、 一部の残留者や病にて入院加療中の者全てが見送る中、鉄路厚和駅を出発最後の第1大隊は
午後2時出発当時 聯隊将兵の内各種 学校に派遣中の者もおり 大部分は原隊復帰をしているが 一部は帰隊命令が急の為
間に会わず帰着時には 原隊は 出発した後で 止むを得ず留守部隊編入されたものもいる この転戦命令は秘密裡に発令
されていたが 何処でこのことを聞いたのか途中の幾つかの停車駅では過っての部隊在籍者などの関係者が差し入れをしたり
激励の為 面会に来ている


19・07・28

12
時までに釜山港に 全部隊師団集結、市内小学校などに分宿 乗船 水泳 対潜の戦斗訓練に励
19・08・01
釜山市内のある写真館より 父の写真送付あり(陸軍少佐肩章を付けて)如何なる手段で今となっては不明であるが
我が家では部隊が釜山港まで来ていることは承知していた、0706付けの手紙からして母は私たち兄弟を連れて面会に
行くべきか 否か随分と迷ったそうである、 結局 幹部将校の立場を考え女々しい行動は厳に慎みなければと決断し断念
したといっている。戦後の慰霊祭で親しくなった 山本第12中隊長のご遺族は当時 京城(ソウル)市内にお住まいで妹さんが
面会に行かれたそうである。中隊長は既に出発間際で乗船していたが わざわざ降りてきて最後の面会をされたことを聞いて
いる 又 安尾聯隊長のご遺族から 出発前夜 部隊幹部による壮行会が開催され 父聯隊長は歌を唄い元気で出発したと
この壮行会に出席した大本営から派遣された参謀から 留守宅に連絡があったそうである

19・08・上旬
留守部隊から父の私物 軍用行李2ケの送付あり軍刀一振り 下着 靴下等多くの冬用の衣類があり この転進は南方地区への
転進が伺える


19・08・07
1大隊を除き 釜山港第2埠頭から出港、 第3大隊本部 第3機関銃中隊9中隊 第10中隊 第11中隊 第12中隊と
1機関銃中隊 他の部隊4千数百名は 香椎丸に乗船
生還者の証言によれば 父は香椎丸の乗船者隊長として 常に艦橋に居て双眼鏡片手に監視をしておる姿が目撃されている


19・08・08
30数隻の船団で 内地 伊万里湾へ  船上から港の魚市場での人々の往来が散見され 久しぶりの内地を見て 将兵22

19・08・15
折からの台風を避け台湾 馬公に寄港、 埠頭には白い砂状のものが山積みされており それが砂糖であった由 当時 内地
では 既に砂糖は欠乏しており肉親に食べさせたいと思ったそうでそれに 輸送船に横付けし現地台湾人が物売りに来たと
将兵は例外なく バナナを購入し鱈腹食べたとのこと中には40本も食した猛者もいたと


19・08・17
馬公港 出港 船団はジグザグコースをとり航海したが 18日夜小雨降る暗夜に敵潜の魚雷攻撃により 聯隊本部 第2大隊
通信中隊 及び他の部隊計4,800名乗船の玉津丸が沈没、 僅かに尾崎大尉以下10数名が救助されたに過ぎない 
この10数名も本隊に追求 後にレイテ島にて全員戦死している玉津丸海没の詳細については  ご遺族 k氏作成の
下記 HP「バシー海峡の海の底」を参照ください

    ://www.geocities.jp/tamatumaru/index.html

19・08・22
第3大隊乗船の香椎丸はマニラ港 入港、停泊すること1日半で下船 一時リンガエン湾の警備につく

19・08・27
タルラック州サンミゲルに進駐 警備と演習に明け暮れる当時のルソン島は米軍の上陸も近しということで世情も不安で
何よりも将兵を悩ませたのは給与(食料)が悪く水牛の肉汁のみで 下痢患者と 栄養失調者が続出した


19・09・17
斉藤二郎大佐(第14方面軍報道部長)新聯隊長として着任、海没した第2大隊も幹部クラスは独歩11聯隊、12聯隊から一般の
兵隊は当時マニラ地区駐在の召集兵をもって補充(補充兵は主として近畿地区と東北地区出身者)約800名
当時 父は第1大隊長 斉藤少佐と共に聯隊本部 第2大隊再編に深夜まで苦労していたことが目撃されている

19・09・21
ルソン島第1回の大空襲あり 米軍の上陸近しと将兵は肌で感じた空襲であった


19・10・07
マニラに集結命令、この頃全将兵に往復軍用ハガキが渡される、この「ハガキ」が父からも我が家と叔母宅に届き今も
仏壇引き出しに格納されている
来信用の片隅を切り取り 往信用に貼り付ければ 返信可能とあり 残存のハガキにはその痕跡がある戦後 部隊の生還者に
このことを確認したが 全員ハガキは書いて出したが 日本からの返信は届いていないとのこと叔母宅のハガキには
「武運目出度く目的地に到着」すこぶる元気なり 中略 のあと今回の出撃は生還は期し難いとある


19・10・10
第13聯隊 マニラに集結完了

19・10・20
米軍 レイテ島上陸

19・10・31
上海からマニラ港に 到着した第1師団の積載物の積み下ろしと 新たな追加物資の積み込みに、泉師団将兵は師団を上げて
協力 独歩12聯隊(今堀支隊)の一部も第1陣として出発


19・11・02
独立歩兵第13聯隊第1大隊は第2陣として機帆船8隻に分乗 マニラ港出港

19・11・11
師団主力は9日出港し(多号作戦第4次)11月11日早朝払暁を期して上陸の計画であったが夜明けとともに米海軍機の反復
攻撃及び上陸用舟艇の不足(前日の台風被害での損傷や他の部隊輸送のためにセブ島に出向)により重装備 軍需品の
大部分を揚陸できず 多数の兵員も損害を受け僅かに遂行兵器のみで上陸した。其の中にあって第3大隊は唯一重機関銃を
揚陸したことが証言されている。 後に迫撃砲6門増加、

戦後 遺族会巡拝の際、第3大隊が進撃した道程を辿ったことがあるが脊梁山脈山中よりこの放置機関銃を村民の情報
から回収し日本に持ち帰り現在静岡県護国神社遺品館に展示されている上陸後師団主力は不気味に荒れ果てたオルモック
街道を通り北方 のドロレスに集結し、一部は先遣の今堀支隊が布陣の前線基地まで進出したが第35軍司令部は師団の当初の
計画(カリガラ会戦)を変更しブラウエン飛行場奪還作戦(和号作戦)に使用することに決定

1911・12
深夜 第3大隊はこの和号作戦の先遣隊としての使命を帯びタリサヤン川の南岸を東進した独立歩兵第11聯隊のある生還者
の手記に次のごとき手記がある上陸時の疲労と相次ぐ行軍に熟睡していたところ けたたましい人馬の音に目を覚まし同僚に
聞けば、ある部隊が特命を受けて出発しているんだと 我々は今は寝ているが ご苦労なことだと思った翌朝 再度確認すると
部隊は第13聯隊第3大隊と聞いたこの和号作戦には工兵聯隊 砲兵聯隊 輜重聯隊 独立工兵第65大隊等も師団を上げて
進撃路開拓に協力 同じ時刻に出発している


19・11・15
第3大隊 マホナグ到着

19・11・20
第3大隊ルビ南東2キロに進出 此の時一部の米軍と遭遇しこれを撃退米軍も秘密裡に小部隊がジャングル路を西進しており
記録が残存している

19・11・22
タグバ西方二八七高地に進出 「ブラウエン方面に敵を見ず」と報告

19.11・26
第3大隊マタグバ東方地区に進出 先遣の小泉集成中隊を掌握(小泉少尉を長ととする学徒兵将校を中心の集成中隊
200名 抜兵団)

19・11・27
工兵26聯隊 品川聯隊長は「ルビ」まで野砲搬送道を完成したと 師団本部に出頭し報告

19・11・28
第3大隊は「マタグバ方面に敵第86師団進出アルガゴトシ」と報告 報告は正面の敵が空中補給を受けているのを目撃
第3大隊は山に入って既に半ケ月経っていた 補給は充分でないから この頃は多くの栄養失調・マラリヤ・下痢患者が出て
おり 其の状況下、同日12・30〜18・00の間に「287高地後方ニ進入シ来タレリ敵100ヲ奇襲攻撃シ其ノ半数以上ヲ殺傷、
ソノ他ノ戦果ヲ得タリ」と報告
ダキタン川渓谷に沿った小高地を巡って米511聯隊とのジャングル内で余儀なき戦闘があり(当時の報告書が厚労省に
保管残存しているが 100名程度を殺傷撃滅したとある)

19・12・03
軍司令部あて第26師団司令部の報告では先遣の第3大隊は205高地付近を進出中にて6日「ブラウエン飛行場」に対し
約40組の斬り込隊を投入する予定なり又大隊の一部はブラウエン南方5キロ327高地を前進中なり、野中大隊(第30師団77
聯隊の一部を基幹としてオルモック周辺にあった部隊を集成)は3日ルビ着、15・00には287高地に前進せり井上大隊
(独歩12聯隊第2大隊)は12日夕「ルビ」到着予定 師団司令部は4日午後 287高地に進出予定と(師団司令部は結局 287高地
には進出していない)

19・12・05
第14方面軍作戦参謀 田中光祐少佐は師団司令部(戦闘指令所)に到着し後の手記には次の如く書いている
密林の山中にこもって飢餓に瀕している泉師団の兵士たちは いづれも目ばかり白く凄みを帯び骨と皮ばかりである。
まるでどの顔も生きながらの屍である、地獄絵のような悽愴な形相である


19・12・6
第3大隊は6日夜「予定通り突入」という報告を師団司令部へ午後8時白井垣春少佐指揮する空挺第3聯隊(香取隊)260名は
39機に分乗ブラウエン及びサンバブロ飛行場に降下 ここに和号作戦の火蓋が開かれた第3大隊の南飛行場へ4人〜5人単位
40組の斬り込み隊が突入したが頑強な米軍の抵抗に会い飛行場の一角に取り付き激戦を展開7日夜には更に前進し復行
滑走路を占拠、付近の天幕 高射砲を破壊16師団突入の北飛行場とともに第1線の心血をつぎ込んだ我が空地共同の和号作戦
はかくして相当の成果を収めブラウエン両飛行場を確保、26師団の僅かな生還者の証言では第3大隊の兵士は出発時に
自分の幕舎まで残し還らぬつもりで出発した。
しかし斬り込み後若干は還ってきましたがこの兵隊たちは飢餓のため もう体力の限界で動けない者多かったと

19・12・07
中村高級参謀 がルビに帰来し第26師団は昨6日重松大隊が夜襲斬り込みしたのみで師団全体では動いていない旨 報告した
一部の本では7日未明〜8日後半にかけて空挺第3聯隊 第16師団 重松大隊が夫々連絡が出来き共に行動したとの記述もある


19・12・08
朝 軍指令所に田中方面軍参謀 26師団峰尾参謀到着田中参謀は重松大隊の位置まで行った  26師団主力は7日の斬り込み
には間にあわなかったと報告

19・12・09
7日払暁 米77師団2個聯隊がデボジトに逆上陸に伴い 軍司令官は「戦闘指令所」は9日反転を決意峯尾参謀に対し第26師団
は一部を以ってブラウエン南西6キロを扼して軍の転進擁護後すみやかに主力をもってオルモック平地に転進 上陸中の米軍を
攻撃 16師団の収容の命を下す


19・12・09
師団に反転を命ぜられたのが9日で先遣の第3大隊は師団命令で此の地に残留イピルを出発して1ケ月経って折り飢餓と
相次ぐ戦闘で体力を消耗且弾薬の補給も皆無の中、殿軍としての追撃の米軍の攻撃をこの地で阻止する任務を与えられた

19・12・18
挺進第3聯隊長の陣中日誌が幾多の兵士の手を経て奇跡的に 日本に持ち帰られているが日誌には「18日重松大隊とマタグバ
東北4キロ付近のジャングル中にて遭遇せり」とある
更に日誌はその後 重松大隊と西進せり 重松大隊は全員幽霊の如くやせ細り歩くにも一日数キロという有様であったとある
当時何名くらいがであったか記述はないが 恐らく200名以下に激減したいたのではないだろうか第3大隊 高千穂部隊とも
生還者は皆無のため真実は不明である

19・12・22
白井連隊長は第3大隊と行動し 287高地 で野中大隊と合致する
※野中大隊とは第2陣としての豹兵団 第77聯隊第2大隊のこと戦後判明したことであるが 伊故海第10中隊長以下855名
が12月22日「ブラウエン飛行場西方10キロにて戦死」という一括認定の戦死公報がでている

19・12・28
35軍参謀 高橋公平少佐の証言によれば 26師団重松大隊長、 高千穂降下部隊白井少佐、は12月28日まで287高地で追撃の
米軍と交戦しながら後衛突兵としての任務を果たしていた

※高橋公平少佐はご高齢ながら北海道でご健在で ある、 今年も年賀状を頂いた10数年前お住まいが判り電話したことが
あるが 重松と名乗ったところ即座に重松大隊長の息子さんですかとお応えがあり 後日次の如き丁重なるお手紙を頂いた
「重松大隊長にお会いしたのは敵の迫撃砲弾が飛んでくる ジャングルの中でしたそれまで先遣隊としての任務を遂行され
進入してきた一部の敵を殲滅されたことは今でも記憶に残っております。その後状況は好転せず転進を始め泉部隊に復帰
したと記憶しています重松さん個人の記憶としては 正に 軍人という感じを受けました と
お会いした機会も少なかったので具体的なことは申しあげられず残念におもいます云々とありました」
その後高千穂部隊出発後 第3大隊も転進を開始追撃の米軍と交戦しながらの後衛突兵としての任務を果たしての転進は
難渋を極めた。道なき脊梁山脈西方の山腹を斜行、マラリヤ 等の病 栄養失調 飢餓と斗ながら多くの谷越え 岩の上りを強い
られながらオルモック湾の米艦船を遠望しつつ転進は続いた
オルモックも既に日本軍は撤退しておりダナオ湖経由一路カンギポットを目指し転進は続いた
転進道は26師団主力が転進通過した道で各所に集中して多くの日本将兵の白骨死体が見受けられたといわれる。
後に この転進街道を白骨街道といわれるようになった
戦史によれば高千穂部隊は12月28日夜出発 、脊梁山脈西方を転進1月にはリモン南方地区にて本道を突破
25日星兵団着26日軍司令部に到達  2月4日白井聯隊長は陣没されている


20・02・上旬
第3大隊カンギポットの師団司令部到達(戦後東嶋大尉の証言のよれば〇〇名が到達したと聞いた記憶があるが失念して
おり 恐らく数十名であろうと思う)


20・03・頃
第3大隊は泉師団 自活自戦地域 シラドに移転 絶え間ない米比軍との交戦に明け暮れる間隙をぬい毎日が食料の調達と
潮汲みであったそうである

20・04・10
米比軍の集中攻撃があり 父と共に戦った第12山本中隊長戦死

20・05・頃
自活自戦 体力も失くなり 少ない将兵も 飢餓と病で次次と戦死

20・05・末頃
第26師団司令部兵器勤務隊の出納官吏曹長 山森三平氏(生還者)の著書に次の記述あり山森曹長は当時26師団
加藤参謀長の当番兵をされていたようで


5月末ごろと記憶している。26師団はカンギポットの洞窟が所在であった。加藤参謀長を中心とする今堀聯隊
工兵聯隊の一部に過ぎない 眼下の小道を行くのは今堀聯隊の軍旗である。先遣は将校か准士官の指揮する
前衛一個分隊くらい、それから50メートル程遅れて軍旗を護衛する下士官3名と記憶する、 軍旗は軍旗覆に
包まれていたが聯隊旗手の足は軽かった 其の跡を行く聯隊長は杖をついていてちょっとよろめく足取りであった
その後は東嶋大尉である東嶋大尉の後には約30名ほどの将校 下士官兵が続く 最終が品川工兵聯隊長以下
約10名 粛々200名というところか

とあり 26師団 13,000名が師団長も戦死 し加藤参謀長を長として聯隊長二人を含む 200名が生存ということを意味している


20・06・ 10
部隊将兵も戦死し部隊は消滅、父は部下将兵の後を追い軍刀にて覚悟の自決、マラリヤと栄養失調で体力無く銃声も周囲
への影響を考え軍刀で喉を突きたてたといわれている。遺言は「前に手紙にて伝えてある」の一言であったそうだ 私が思うに
肌身離さず持っていた私たち兄弟の写真や手紙を握り締め生粋の武人として軍人として雄雄しく死を迎えたと思う

この最期は師団司令部に報告され 当時の生存者が一様に留守宅への責務と考え伝え合い 戦後 痛ましい戦傷で奇跡的に
生還された東嶋登大尉からお知らせ頂いた。
其の時の お話では 戦死後 和号作戦の殊勲に対し畏くも上聞に達し特進の扱いもされたと聞いているが戦死公報は
「陸軍中佐」となっている

※東嶋大尉(独立歩兵第12聯隊 副官 )は 同じ大分歩兵第47聯隊の出身で父が先輩に当たり且独歩第12聯隊に2年間在隊
していたので旧知の間柄であった
泉師団生還者 27名「(レイテ上陸後 生還した)13800名が戦死」のうち 唯一の幹部将校で玉砕部隊ながら師団の最期が判明
しているのは東嶋大尉が生還し多くの戦史を証言されたからである
別府の旧陸軍病院で父の最期をお知らせ頂いたときと数年後 松葉杖をついて我が家の仏前参りにお越し頂いた時と2度お目
にかかっている         初めて 東嶋大尉にお目にかかったのは 21年6月頃と記憶している
私の実家(大分県中津市)から入院療養中の別府病院まで 50キロ程度であるが 当時のこととて前日 食糧の米持参で別府
の旅館に泊り早朝のバスで行ったことを記憶している(母と弟の3人で)大尉は4人部屋の右 窓側のベッドで父の部隊戦史に
ついて説明お知らせいただいたが病衣を開き 腹部の傷跡を見せていただいたことは鮮明に子供心に覚えている
それと 毛筆で書かれた分厚い手控に ビッシリと戦没者の氏名が書かれ克明に記録されていた恐らく復員の病院船の中で
記憶の確かなうちにと 考えられ記録されたのではなかろうか

大尉は20年7月末 迫撃砲弾に被弾、人事不省のところを 米軍に収容され奇跡的に生還されたもので片足切断 腹部には無数
の弾痕の痛ましい戦傷を負い その後戦傷が因で昭和31年死去されました 泉師団関係者は今では 散華された13,800名の
英霊が師団最期の使者として故国 内地日本に託したのでは と思っています。
第1回部隊慰霊祭を待たず死去されたご主人様のご遺志を継がれ 奥様も今堀聯隊長の奥様と連れ立たれ昭和40年代の
早期に幾度となく現地巡拝に参加され、毎年の岐阜の慰霊祭には 遥遥東京から駆けつけられ慰霊に尽くされておられます。


〇終戦後の20年12月頃 日本放送協会(現在のNHK)のラジオ放送で「泉師団独歩13聯隊第3大隊 重松大隊はレイテ島の
飛行場奪還作戦で 玉砕」との放送を聞いた 父の陸士時代の同期生 から知らせがあり改めて放送協会に手紙で照会し
その回答が今も 残っている 其の頃から 我が家では 父の戦死は事前に承知し覚悟していた

〇東嶋大尉に面談したのは 上記から6ケ月後 正式な戦死公報(レイテ島シラドにて戦死 陸軍中佐 重松勲次とある)
はそれから更に遅れること 1年後の昭和22年7月である

独立歩兵第13聯隊のレイテ島への参戦経路
@朝鮮釜山港 ⇒ 台湾馬公港 マニラ港 レイテ島
  (伊万里港で船団編成)第26師団は 摩耶山丸 玉津丸 香椎丸 日昌丸に分散乗船

A   〃    
 台湾馬公港 ⇒マニラ港 ⇒マスバテ島周辺の孤島 ⇒  レイテ島 
     
(後発のレイテ行き輸送船に救助され)

B   〃    
⇒ 台湾馬公港   マニラ港  マスバテ島周辺の孤島 ⇒レイテ島
    
レイテからの帰途の輸送船に救助されマニラ港に一旦帰り再度レイテ決戦に参戦
 

C   〃    
⇒ 台湾馬公港  マニラ港   マスバテ島 セブ島
    
レイテ島を目前に 輸送船も無く 終戦を迎える 生還者100名弱 戦後の国内慰霊碑 慰霊祭の中心となる

D   〃    
 台湾馬公港   マニラ港 ⇒ マスバテ島
    
生還者 100数名
 
E   〃    
台湾馬公港 バシー海き狭で 玉津丸海没 マニラ港   ⇒レイテ島              
    
早期に海上から救助され 本隊に合流 尾崎大尉以下10数名
 
F   〃    
台湾馬公港⇒ バシー海狭で  玉津丸海没 
    
12日間海上を漂流後 意識不明のところ救助され高雄陸軍病院へ中嶋秀次さん 稲葉彦男さん 浅井芳郎さんの3名が生還

釜山港で ヒ71船団 編成時の乗船区分
 @玉津丸 聯隊本部 第2大隊 歩兵砲中隊 通信中隊 他に14ケ部隊合わせて5,000名乗船 8月19日バシー海峡で海没
 A香椎丸 第3大隊 第1機関銃中隊 他の部隊合わせて4,000名乗船8月22日 マニラ港入港
 B越海丸 第1大隊 他の部隊合わせて4,000名乗船遅れて 別の船団で8月16日 下関港出港 8月27日北サンフエルナンド港入港 

ルソン島 ⇒ レイテ島への乗船区分
 
@第1大隊 10月31日出発 機帆船3群 1,050名
    機帆船 100トン内外に分乗した詳細
    勢吉丸 大隊本部 第2中隊の指揮班 中沢小隊 竹下小隊
    神力丸 第3中隊 谷川小隊
    大栄丸 八木隊内山小隊 佐方隊田高小隊
    関門丸 第1機関銃隊 八木隊岡本小隊
  A第2大隊 11月1日出発  機帆船4群 1,050名
  B聯隊主力(第1大隊 第2大隊を除く)泰山丸 1,400名  11月4日出発
  C金華丸 香椎丸 高津丸には 師団司令部 直轄部隊が乗船11月8日 マニラ出港 9日夕刻18時30分オルモック
上陸
 
Dその他3隻船名不詳に 第1中隊 第4中隊乗船

戦死者名簿作成について

昭和32年12月29日〜31日の間 延べ15名で静岡県庁の正月休みを利用して県内出身者の泉5316部隊戦没者を調べる為
県援護局長に特にお願し戦死者名簿の閲覧により宿直室を借り抽出書き これを更に県下市町村別に分別し 
各市町村宛発送し確認を依頼静岡県以外の他府県については 厚生省に特別に依頼し各当道府県別に 掌握した


5316会作成の部隊戦死者名簿には 3,614柱の ご英霊が記載されているが ルソン島上陸後聯隊本部 及び
第2大隊再編成の際 編入された和歌山歩兵第6T聯隊補充隊等(推定500名)が名簿に記載されていない。
 ご遺族は近畿周辺に多く 証言確認もあり 名簿作成の際 脱落の不備がある 
尚 同じ時期に編入された新発田歩兵第16聯隊補充隊(200名)は名簿に記載ありよって 部隊の戦死者は 4,100名前後となる     
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玉 津 丸
平成22年9月12日から 10日間 逐次 全国朝日放送系でテレビ放送された「バシー海峡〜知られざる惨劇の記憶」について
前後3回取材を受け協力した(放送前にテレビ局から 連絡もあり 70名近くの方に電話にて連絡、 この放送を契機に本ページ作成した)
放送は 19・8・19 バシー海峡で米潜水艦の魚雷攻撃で海没した「玉津丸」の悲劇で以下は名古屋テレビ放送会社に提供した書籍 
資料を要約したものである

1944年建造 陸軍特殊輸送船(船内に上陸用舟艇を収容 俗にMT船と呼称)速力20・4 ノット 長さ140m 幅 19m 9,590t
輸送船史上 一船では最大の犠牲者を出した玉津丸の悲劇 今も多くの輸送船がバシー海峡の海底深く 海の藻屑と消えた
悲劇を知る人も少なく この機会に是非世間に知らしめて欲しいと切なる希望です
玉津丸は ヒ71船団(フイリピン航路71番目の船団)に属し当時では最高の優秀船及び多数の護衛艦にて編成されたにも拘わらず
バシー海峡で米潜「ブルーフイッシュ」の魚雷攻撃で海没した

この船団は比島防衛の兵力増強を目的とする泉兵団(第26師団)をはじめ 多数の精鋭を搭載した輸送船と昭南方面に石油積み
取りに行くタンカーを以て編成した高速船団で瑞鳳丸 永洋丸の12ノット以外は15ノット以上の性能を備えていた。
 

航 程
 年月日  時刻  備  考
19・
08・04 
  14ケ部隊 2,229名 将兵乗船し門司港出港し 釜山港へ 
08・08 06・25 釜山港にて泉師団将兵は香椎丸 玉津丸 日昌丸 摩耶山丸一部は越海丸に乗船尚越海丸は
このヒ71船団とは別途の後発船団に属し 無事ルソン島到達
朝鮮釜山港出港(以降この玉津丸への乗船は無く)内地 伊万里港沖に停泊中 伊万里市内
魚市場が望見できて 一同久しぶりの内地に故郷を想い望郷の念に駆られる
08・10 05・00 ヒ71船団 伊万里港出港 ○赤色 海没 △青色 被弾損傷
輸送船 △阿波丸 ○帝亜丸 摩耶山丸 香椎丸 能登丸 △能代丸 北海丸 ○玉津丸 吉備津丸 日昌丸 
二洋丸 第2八紘丸 瑞宝丸 △永洋丸
 鴨緑丸 
○速吸(給油艦
) 伊良湖(給糧艦) ○帝洋丸(油槽艦 あづさ丸(油槽船) 旭東丸(油槽船)    以上20隻
護衛艦 海防艦平戸 倉橋 御蔵 昭南 第1海防艦  駆逐艦藤波  夕凪  ○空母大鷹      以上 8隻
   午後 途中で 輸送船 吉備津丸が機関故障で離脱 同船長崎港へ反転
08・13   天候急変し暴風雨となる船酔い者 続出船団は避泊することになる
08・15 18・30 台湾 馬公港入港 久しぶりの陸地に全員 上甲板に出て精気を養う 埠頭を見ると白いものが堆く積み上げられ
時々その作業人夫がその白いもにをヒヨイと口に運んでいる
当時内地では欠乏していた砂糖で 出来うれば内地の肉親に土産として持ち帰れたらと
また地元の台湾人が手漕ぎ小舟を操り輸送船に横付けしバナナを売りにきたと船からカゴに代金入れて下ろすと
バナナを積み 多くの将兵はバナナを鱈腹 食し空腹を満たした
08・17 08・00 馬公港出港
編成を改め 船足の遅い二洋丸 第2八紘丸 鴨緑丸 伊良湖丸を分離 新たに 護衛陣に海防艦 佐渡 松輪 
日振 択捉 を加え強化駆逐艦朝風護衛という記録本もある?よって輸送船は15隻 護衛艦は13隻となる
08・18 05・24 出港1日にして永洋丸 雷撃を受けて 沈没は免れたが 護衛艦夕風が護衛し高雄に反転
乗船部隊の独立混成旅団(盟)の将兵351名中 35名戦死航空母艦大鷹から艦上機発艦し敵潜の活動は影を
ひそめる
  22・20 空母大鷹 雷撃を受ける 右舷後部ガソリンタンクに命中し大火災更に10分後の第2弾は重油タンクに命中 
22・48沈没
  23・12 帝亜丸 被弾23・40海没 乗船者5,487名中 2,369名戦死
08・19  00・32 能代丸被弾するも沈没は免れ 護衛艦択捉 第11海防艦の護衛を受け昼間航行を重ね24日 14・30マニラ港入港
  00・33 阿波丸も船首に被弾するも航行可能で陸岸に添って南下 05・00 能登丸と会同し11・00リンガエン湾に入泊 
マニラには26日到着 
  03・20 給油艦 速吸が被弾沈没
  03・20 帝洋丸 被弾 06・00海没
  04・30 玉津丸被弾 右舷中央部2発命中し10分後に全没一部乗船者は海上に脱出したが荒波にさいなまれ 
重ねて救助が遅延したため最悪の事態を辿り総員4,820名のうち4,755名戦死
バシー海峡 北緯18・49 東経119・47(ボヘヤドール岬西北西90キロ)
遭難を免れた各船は正午近く リンガエン湾に集結し その時の輸送船は5隻 護衛艦は4隻その他は独航でマニラに向けて航行 リンガエン湾のグループも
21日マニラ港に到着

護衛艦の海防艦 佐渡 松輪 日振はそのまま現場に留まり敵潜掃討を続行 21日撤収しマニラに向けて航行中 バターン半島沖にて雷撃を受けて
3隻とも沈没

玉津丸 大阪商船所属 処女航海 昭和19・02・13     乗船部隊指揮官 独立歩兵第13聯隊 聯隊長 安尾正綱大佐

乗船部隊

○第26師団独歩第13聯隊         安尾聯隊長ほか聯隊本部
         同聯隊第2大隊      原井大隊長ほか第2大隊全員
         同聯隊通信中隊      垣川中隊長ほか中隊の大部
         同聯隊聯隊砲中隊    土橋中隊長ほか中隊の全員 
         同師団通信隊の一部                        
                               計 2,000名戦死 3名生還  戦死者名簿あり
○第26師団通信隊     戦死者名簿あり
○第22野戦重砲聯隊 主力     
○独立重砲第4大隊     
○仮編独速砲第19大隊(独立速射砲第19大隊)
○第5南方方面軍           
○第155飛行場大隊部隊総員400名 二瓶照雄氏のみ生還
○南方燃料本部            
○野戦貨物廠       
○第18航空地区司令部 
○第139飛行場設営隊 大城善繁氏 狩野得忍氏2名生還 他の172名全員戦死
○第70飛行場中隊 
○12MGS(第12機関銃小隊のことか?)   
○55MACS ?          
○7HA ?      
○長野師団管区砲兵補充隊 ご遺族存在?  以上 厚労省の資料から 以上 15部隊が乗船

独歩第13聯隊(多数) 第22野戦重砲連隊(1名) 独立速射砲第19大隊(2名) 第155飛行場大隊(2名)
第139飛行場設営隊(2名) 第70飛行場中隊(1名) 玉津丸(乗り組み船員1名)の遺族の皆さんと 親交あり

乗船者数  
            乗船部隊総員  4,459名   生存者数 53名
             〃船舶砲兵    226名     〃     9名
            〃 船員      135名      〃    3名
              計        4820名           65名 救助されている

玉津丸関係の資料 書籍は

  
レイテ文庫  B-2欄に記載

◎船員の生還者有馬純利氏 事故報告書(陸軍徴傭船舶行動調書によれば)
甲板員 吉川美憲氏 東畑清隆氏は救命ボートを操作し乗船部隊員43名を救助し4日間漂流後護衛艦に収容される
東畑清隆氏はそのご三菱汽船「おりんぴあ丸」に乗船勤務中19・9・29米空軍機の空爆で戦死
    (第155飛行場大隊 ご遺族平山様の調査による)

◎泉師団将兵のうち生還者は3名(12日間漂流後 救助)

◎独歩12聯隊は日昌丸に大部が乗船、一部は他の輸送船(摩耶山丸)に乗船

◎父(独歩第13聯隊 第3大隊)は香椎丸に乗船 マニラ港着

◎空母 大鷹の船長 杉野大佐(杉野兵曹長の御子息は)今堀聯隊長(独歩12聯隊)と津中学の同窓生にて馬公港停泊時に同船を訪れ
 旧交を温めている

◎NO14「雷跡」の著者の記述に 71船団の漂流者が多数目撃されていたと あるが 中嶋秀次さんの証言では かかる事実は無かったと
否定されている少数のものが 海上に脱出はしたが 多くは運命を船とともにしたのではないか 後日 著者の宇野氏より面談の
申し入れあるも最終 合う機会が無かった
この事実は 後日 「NHK戦争証言アーカイブス」出演の阿部顕瑞氏の証言から 同じヒ71船団 帝亜丸乗船の部隊将兵であるこtが判明

◎玉津丸以外の輸送船に乗船した泉師団将兵はルソン島 到着後 サンミゲル 一部はマニラ地区に駐留
レイテ決戦参戦の命を受けた10月下旬 全員に「軍用往復ハガキ」が渡され それが当時では奇跡的に内地日本の留守宅に届いている 
このハガキが届いているか
否かが バシー海峡を無事通過したかの判断基礎となっている


玉津丸乗船の第70飛行場中隊の あるご遺族から提供を受けた 
当時の戦死公報
  ( 印 判読困難を表す)
1 所属部隊官氏名     ○○○○
                         ○○  ○○

 

2 生死不明となった日時場所
                昭和19年8月19日 4時40分 バシー海峡
 
3 生死不明となった前後の状況
輸送船 玉津丸は昭和19年8月4日2,229名 乗船して門司港出港 安尾正綱大佐 輸送船指揮官となり 8月8日 06・15 釜山出港
8月10日 伊万里港出港   8月15日 馬公に寄港 17日 08・00「マニラ」に向けて出港した 當時「バシー」海峡 「ルソン」島 
西北部に米潜水艦の集合ありとの 情報により厳重なる注意警戒を 実施して進航す 18日 日没より猛烈なる降雨あり 視界狭少となり 
22時30分突然潜水艦魚雷攻撃を受けたるを認めたる為 直ちに爆雷を 投下して之が制圧すると共に回避中  暗黒夜と猛雨の為 次第に僚船
と離反するに至り 僚船の行動一切不明となり 本船は単独北航せるものの如く 04・35 附近に敵潜の近接したるを発見したので 之を回避
しつつ航進中 船腹中央機関部に魚雷命中 一大衝撃音響と共に爆発し船体中央煙突附近より猛烈なる蒸気を噴出し
つつ左側に傾斜急速に浸水した
??船体機関室に浸水 数分で船体全く??した 
全員退船を命じたるも 沈没までの時間僅少なりし上 傾斜急速なる為 退船者少なく 積載物件共海没した
  
4 
???????
退船にありては
 救命具等配置して収容に努めたるも波高く 加ふる に風向潮流の為
分散し降雨暗黒の為視界利かず捜索救命等意の如くならず 漂流者中 8名は「高雄」
に11名は北「サンフエルナンド」に救助せられ 他の46名
は台湾 南端8
??附近近海に於いて船団護衛の海防艦「屋代」に救助せられた
  
5 戦死認定の理由
前記の如く魚雷攻撃を受くると共に 船体大傾斜し極めて至短時間に沈没したのと當時降雨激しく暗夜であって視界僅少波浪の為 退船困難
なると
??じて退船せる者と救助困難であった状況より 判断して船と運命を共にせるか 或いは退船後 海中に海没せるものと認む
よって昭和19年8月19日 前記場所に於いて 戦死せるものと認定する
   
                                                    昭和23年 月  日               
 渡 馬 孝