慰 霊 活 動
 我が家の慰霊と現地巡拝

昭和4510
 母と妹がPIC〈当時の代表は梶原譲氏〉の巡拝団に参加して現地巡拝、 部隊が玉砕したブラウエン南飛行場跡地に「部隊慰霊碑」を建立
 この慰霊碑は20a角の柱状の角材卒塔婆で内地日本から別料金で苦労して 運んだのであるが数年後には消滅していた
 恐らく現地人が住居の柱に利用のため持ち去ったのであろうと以降慰霊碑の 卒塔婆は薄い板状のものか
十字架に限るという教訓となった

昭和57年4月
 第17次泉会(泉師団遺族会)巡拝団に同じく母と妹が参加 この巡拝団は泉会 発足以来最大の巡拝団で一行120名 マニラから飛行機をチャーターしての
 巡拝でレイテ到着後
東海岸からと西海岸の2班に別れ最終日に同島で合同の 慰霊祭を実施した


私の現地巡拝

  昭和50年代に入ると岐阜の5315部隊慰霊祭や静岡の5316部隊慰霊祭で現地巡拝を  された遺族の多くの皆さんから随分と巡拝のお誘いを受けた。
  当時金融機関に勤めていた私にとって8〜10日間の休暇はムリでいつもご英霊や遺族 の皆さんに申し訳ないと心の中では詫びていました。
  親しき友人から数日の海外旅行のお誘いも2度3度ありましたが未だ一度も現地巡拝を  していない私が 遊びで比島上空を飛ぶことは 比島の地に眠る
  英霊の皆さんに申し訳  なく海外旅行は慰霊巡拝を済ませてからと、私に巡拝可能な時期(退職後)がくれば  必ずや巡拝しますと心で誓う日々でした。

〇平成
104

 泉会の一行30名の皆さんと最初の巡拝、現地慰霊祭の感激は終生忘れることは ない


 第3大隊将兵が斬り込みをして一時は奪還に成功した南ブラウエン飛行場(現地名 バユグ)の跡地に建つ泉師団遺族会の慰霊碑、遺族の皆さんの
 協力で屋根を葺き 垣根を設けてある
 今は慰霊碑前のバランガイ職員を勤めるエルリンダ・アマットさんが父親から引き 継いで2代目として慰霊碑の管理をお願いしている
 晴天のときは 慰霊碑前までバスの乗り入れも可能であるが巡拝団が訪れると 管理人が日ごろは自宅に保管している 泉会寄贈の「観音像」
 運んで祭壇に供えて くれる
 周辺には人家は少ないが 我々の巡拝団の車を見かけると,即時に此の噂が広まり 何処にこれだけの現地人が住んでいるのか 理解できない
 大勢が慰霊碑周辺に集合 する。
 その数300人は下らない レイテ島巡拝は10数ケ所の慰霊碑前で慰霊祭を実施するが 見物にくる現地人の数は最多と思う 慰霊祭終了後 お供えの
 品物を含む 日本から 携えてきた文房具衣類タオル タバコを全員に漏れなくいつも配布する


〇平成12年4月
  泉会の皆さん20名と2回目の巡拝

○平成13年12月
 
日本遺族会主催 慰霊友好親善訪問団(通称遺児巡拝団)一行15名に参加

〇この間は
 牧野弘道先生ご兄弟と巡拝、宮内会(第57聯隊遺族会)など4 巡拝しました

○平成22年1月 厚労省主催の慰霊巡拝団
 (レイテ セブ ミンダナオ班)に参加
 一行34名(レイテ30名、セブ1名、ミンダナオ1名、パラワン1名海軍3名)
 1月19日成田に集合して27日帰国 前後泊10日間の巡拝遺児22名 兄弟12名               

  
  国内部隊慰霊祭参拝

独立歩兵第12聯隊(泉5315部隊)慰霊祭
 慰霊祭岐阜市大門町 円龍寺境内の慰霊碑前にて昭和333月第1回慰霊祭を 開催、
 以降平成
20 3月まで51年間にわたり関係者のご尽力で開催されてきました。 東嶋大尉の奥様のご紹介で最初に訪れたのは
 昭和
37年の第5回慰霊祭と記憶して いる。
 境内には関係ご遺族が満ち溢れその数
2,000人を超える盛大な慰霊祭あった   毎年地元岐阜新聞の 取材もあり何度か私も写真にて
 報道されたことがある。  今堀聯隊長の奥様、 其の後を引き継がれたご子息様は毎年欠かさず参拝されており、  中心となり会のお世話を頂いていた
 のはレイテ派遣途上輸送船が大破しマスバテ島で  戦闘した1ケ中隊弱の皆さんで過っての戦友の慰霊の為に献身的に ご尽力を
  いただいた。                             
 故中嶋会長様から   ご招待を頂き中嶋様の隣家のホテルに泊り 東嶋様の奥様 5315会の  幹事野田彰二郎様との深夜までのレイテ談義を したことなど    
 終生の 思い出がある。
 当時は新幹線も未だの時期で早朝から急行利用でも3時間を越える慰霊旅行で
 あった
途中で私の九州転勤に伴い中断したこともあるが 少なくとも40回は参拝
 している
。父が16ケ月(17年8月から18年12月まで)在隊し戦友の多くがレイテで戦死
  しているので ご遺族の中には「重松」の姓を聞いて父は兄は 息子は「重松隊」にいま
  したと当時の郵便を示されて 声かけを頂いた
  オルモックのコンコリートハウスで戦闘した立石大隊長(父と陸士同期生)や
 梅林寺大隊長のご遺族とも当慰霊祭に参拝されていると聞いているがお会いした記憶
  はない 円龍寺のご院主も今は当時の お孫さんとなり 年月の 経過を痛感
する

○ 独立歩兵第
13聯隊(泉5316部隊)慰霊祭

 慰霊祭静岡市柚木 静岡県護国神社境内の慰霊碑前にて昭和339月第1回 慰霊祭を開催 当日の参拝者は新聞報道では5,000人とある)
 以降平成
199月 まで50年間に亘り開催された(現在も継続開催 毎年9月23日 静岡県護国神社於) 私の九州転勤等で実現できず昭和48
 再度の大阪転勤に伴い、
この年初めて この慰霊祭に参拝した
 その頃の慰霊祭は多くの地元の衆参議院議員や県会議員 市会議員など先生方を 含めて参列者は多数で毎年必ず地元テレビ局の取材もあり会の
 終わりに
皆さんの 前で紹介されご挨拶をしたことも幾度かある
 私の名前を聞き多くの ご遺族から声かけもされ 以降毎年の慰霊祭で応対に多忙 極めた.
安尾聯隊長(玉津丸に乗船戦死) 後任の斉藤聯隊長
 ご遺族をはじめ多くの  ご遺族と今もご厚誼を頂いている。
  レイテへの輸送途中 第2中隊、第3中隊、第1機関銃中隊、等の一部が、乗船の機帆船  が海没し最終セブまで進出したが同島で終戦を迎え生還された
 1ケ中隊弱、 此の方々が  中心となり慰霊碑の建立・長年に亘り慰霊祭も主宰していただいた会の鈴木会長 後任  の石上会長始め皆さんの多くは
 死去されたが関係者に感謝の気持ちで一杯である。
 慰霊祭は毎年 午後1時からの 開催であるが参拝客は大半が11時頃には参集 各所に戦没者の写真持参で思い出の話をされ慰霊の一日を過ごしていた
 部隊の生還者は100名近くいるが(一部の中隊がレイテ島への途中 輸送船が攻撃 を受けてマスバテ島 セブ島に上陸)主力が上陸したレイテ島
 からの生還者は  3名、戦没者は3,614柱

 戦死公報の内訳
  大  隊   戦死地  戦死日時   戦  死  公  報
第1大隊  アルベラ  19・12・20  一括の認定戦死公報
第2大隊
(厚和出発時)
再編の第2大隊
(マニラで再編)
バシー海峡


アルベラ
 19・08・19

 
 19・12・20 
乗船した玉津丸が海没・他の
部隊を含む4,820名の戦死公報

一括の認定戦死公報
第3大隊 ブラウエン
西方10キロ
 19・12・22  855名一括の認定戦死公報
第1大隊
第2大隊
第3大隊
各大隊の一部

マスバテ島
マスバテ島 

その他ルビ
シラド

19・11・20他
20・4・10

20・5・1
20・6・10

マスバテ島はレイテ島への
輸送船の海没戦死 
聯隊の最終集結地の戦死
現認者が生還したものと
思われる
其の他 極々一部がシラド、ダナオ湖において戦死公報が出ている(恐らくこの地域の戦死者は確認者が生還し申告報告したものと思われる) 戦後の調査で 海没した
玉津丸に乗船の聯隊本部、第2大隊はルソン島で再編成されたが当時マニラ地区に駐留していた東北・近畿地区出身者の補充兵を以って再編成されている上記戦死者
名簿には東北出身者は含まれているが 何故か近畿地区出身者は脱落 している該当の近畿地区出身者の戦死公報はアルベラにて戦死と通知されており 私の推定では
略500名が名簿には抜けていると思われる、よって部隊の戦死者は4,000名を超えている

 尚 戦死者名簿作成の経緯過程については 部隊関連戦記欄に 
  詳しく解説 記述してある


◎平成24年 NHK制作の「戦争証言アーカイブス」出演の 阿部顕瑞氏の証言から 上記東北出身者とは 新発田歩兵第16聯隊の補充兵の皆さんと判明
 歩兵16聯隊補充兵は 泉兵団と同じ「ヒ71船団帝亜丸」に乗船 帝亜丸海没後 救助された250名が そのまま 配属替されている



 昭和48年9月23日開催の5316部隊慰霊祭 慰霊碑前での記念写真半分近くの方が 慰霊祭終了後 帰宅されているので当時はこの倍近くの方が参拝されていた
 この35年間我が家の最重要の年中行事がこの慰霊祭参拝であった



 昭和52年 母(大分)私一家(大阪)弟一家(東京在住)妹一家(横浜在住)の 父の血を継ぐ全員が揃って慰霊祭に参拝した時の記念写真、
 弟が撮影したもの

 当慰霊祭には昭和48年から平成24年まで慰霊祭当日以外にも新幹線で通れば 途中下車して参拝しているので50回は参拝しているのでは、
 連休となれば年初に計画をして静岡市周辺を観光した
 富士5湖 清水 焼津 伊豆など楽しい思い出数々あるマイカーで子供と二人で 300K交代で運転行ったことも3度ある、
 その際は書籍や資料を積み込み皆さんに披露した今年平成20年の慰霊祭は 5316会の手を離れ主催が護国神社様に委ねられ内容は従来と全く
 変わりはなく 強いていえば 受付が無くなったこと位であった


高千穂降下部隊慰霊祭
 和号作戦で同じレイテ島南ブラウエン飛行場奪還作戦に従軍した挺進第3聯隊 (高千穂降下部隊)の慰霊祭は聖地 和歌山県の高野山で
 昭和
30年代から 毎年9月に(中旬の日曜日)開催されている
 戦記作家の田中賢一
先生からこのことをお聞きし、平成10年から毎年一泊で 参拝、家からも近くであり宿坊に前泊、レイテ島から生還された
 ○○
氏に いつも戦記を伺っていた
  自衛隊の吹奏もありそれは厳粛で盛大な慰霊祭である 慰霊祭場で 名前を  呼ばれ焼香したことも幾度かある
  毎年 ブラウエンに降下した桂善彦大尉の奥様や娘さんご一家ともお会いしている


その他
 京都市内で開催される垣兵団慰霊祭、名古屋市内 相応寺での独歩11聯隊慰霊祭、
 東京靖国神社で開催のその他の慰霊祭
玉の会慰霊祭〈第1師団慰霊祭)にも
 参加参拝、
 愛知県
三ケ根山比島観音例大祭(昭和48年から)にも過去10数回参拝

靖国神社参拝 毎年7〜8回は参拝茨城県在住の子供の所を拠点に  上京の際は参拝)

〇 大分県護国 神社
 毎年父の命日(6月10日)には案内があり慰霊の永代祭祀をお送りし、 別府経由の フエリー利用の帰省の場合は参拝を心がけている
 
私が属する関係団体と会報

曙光会 平成10年加入 総会も連続10年連続参加   会報購読   運営委員です 
   加入 問い合わせは 掲示板に記入またはメールにてお申し出でください

○ 東海地区比島戦を語る会
      20年間名古屋駅前の中小企業センターで開催  岡山泰士氏主宰

近畿地区比島戦を語る会  20年間伊丹市で開催     山田 光治氏主宰  今年も20・07・17
  新大阪駅近くの郵政会館で参加21名一泊で開催

滝上会 ルソン島で戦闘した独歩356大隊の会  会報は4ケ月毎に    会報購読 近藤陽太郎氏主宰

泉会(泉師団戦友と遺族の会)
 
私の手元に昭和45年から今年まで39年間 毎年現地レイテ島に巡拝した方の名簿 (60数回延べ1700名)がある。皆さん大変ご熱心で本当に
  頭が下がる思いが  します
  巡拝帰国後写真交換会と称し親睦会
静岡 名古屋 岐阜市内で一泊で開催  「岐阜かんぽの宿」「静岡かんぽの宿」には何回となく宿泊,、
   巡拝に参加しないときも    この会だけには
毎年参加している

○「レイテ会」 年一回 九段会館で会合 レイテ参戦部隊
  東京近郷の遺族の方の集会
 平成15年から毎年開催 20数名

「日比国際友好協会」 会員200名 毎年現地へ慰霊団が巡拝 
  毎年4月には盛大な慰霊祭を実施   本部は大阪市谷町8−2−17 本長寺  歴史のある 戦没者慰霊協会
  

〇 「想い出の会」平成13年12月 日本遺族会主催の慰霊友好親善訪問団
  (通称遺児巡拝団)レイテ班一行15名が帰国後各地で慰霊と親睦の会を  毎年開催 している。
  大阪 北九州 松江 高知 鳥取 熊本 と連続6年開催同じ境遇で戦後を  生き抜き今日のある遺児の皆さんと胸襟を開き語りあう楽しい会合である。
  今年の  熊本大会はメンバー15名中13名が参加奥さん同伴が3名で計16名 、 熊本市内観光と阿蘇温泉に一泊して翌日は阿蘇山に東コースと 本コースの
  2ケ所から登頂した 来年は三重の伊勢で、その次は徳島で224年は東京で  25年は 和歌山 高野山と開催と決定している


○「レイテ会」  平成22年3月28日 同年1月に厚労省主催のレイテ巡拝団
  参加者と靖国神社に昇殿参拝 そのあと 九段会館で宿泊深夜までレイテ談義を論じ   慰霊の一日をすごした幹事は私が努め15名参加
  今後毎年開催

〇 「偕行」の遺族会員 毎月月刊「偕行」も購読

今は解散しているが過去に出席した会合

〇 三相会
  独立歩兵第12聯隊歩兵砲中隊 で昭和18年9月満期除隊して内地へ帰還された方々  46名の戦友会  皆さん昭和14年の 召集兵で 部隊が駐屯していた
  北支大同で父と  起居を共にしており 多くの当時の思い出話を お聞きした 部隊の郷土 静岡 愛知
  岐阜の出身者で 伊東温泉 熱海温泉 蒲郡温泉などの会合に5回出席した  あるとき 父の前任者で椿坂茂大尉の奥様と同席したことがある 
   お聞きすると大尉も  星兵団(第68旅団)の部隊長として出征レイテ島で戦死されている 平成18年の巡拝で
  カンギポットにて ご家族奉納の卒塔婆を確認した  もう解散して20年経過したが 年賀状のヤリトリも数名で父を知る人も少なくなり寂しい  限りで ある

〇 知不火会
  熊本陸軍教導学校(後に熊本陸軍予備士官学校となる)卒業生の会  熊本周辺で何回か開催された その都度招待をうけたが一度のみ阿蘇山麓の温泉で
  開催された時に出席したことがある。
  100名程出席 父は昭和15年から出征までの17年7月まで教官をしており 出席者の  中にも数名 父の区隊の在籍者もおり 当時の懐かしい思い出話を
  聞かせて頂いた
  卒業生の多くは戦死されているが出席者の皆さんも大尉 中尉として最前戦で戦闘して  の生還者で学友 部下将兵を偲ぶ慰霊の会合であった。
  復員してから皆さん 社会人として 企業人 教師 郷里の議会議員などされ第一線で  ご活躍されていた。私が参加した時が最後で以降は開催されていない
  このときに お聞きしたことで レイテ島で落下傘で降下した高千穂降下部隊第4聯隊長  の斉田少佐は父の上官で 少佐は熊本の官舎時代に我が家にお越しに
  なられたこと  も再々あり 幼き頃の私に記憶がある後日判明したことであるがパナイ島で戦闘した   独立歩兵第170大隊の大隊副官 熊井敏美大尉
  (フイリピンの血と泥の著者)は同校   16年7月卒業第1区隊の出身で父を知る少ないお一人である



  熊本陸軍教導学校卒業生の知火不会 参加者の記念写真 s55年4月


  熊本陸軍教導学校 校長 佐野虎太大佐を囲む教官一同の記念写真
                 (昭和17年 3月 撮影と日付あり)
  裏面に佐野校長転出記念とあり、 最後列 左から3人目が父(第2区隊長)
  
  同列の右から3人目が田村大尉(第1区隊長) 中列右から3人目が二階堂大尉  (第3区隊長)前列 左から3人目が斉田治作少佐(当時は父の上官で後にレイテ島
  バレンシアに降下した高千穂落下傘部隊第4聯隊長 ・鈴木軍司令官と共にセブ島  →ミンダナオ島と転進後同島で戦死されている  奥様は横浜市でご健在)
  田村大尉宅は官舎が隣家で子供さんが無く随分と ご夫妻には可愛がって頂いた。
  父と田村大尉と近くの熊本市内を流れる白川の支流に 鯰つりに行ったこと、 休日に第1区隊 第2区隊生徒80名で絵図湖での舟遊びや阿蘇登山など楽しい
  思い出でがある 戦後も ご厚誼は続き 奥様が死去される昭和60年まで 毎年  盛岡から「津軽りんご」が送付され 今ではあの世で父と毎夜一献傾けている
  のではなかろうか

〇 嘶き会 (父の陸士同期生の会)
 
全国各地で親睦会が開催され毎回30名程度の出席者で盛会であった。  父と机を並べた中島様から当時の陸士時代のお話を伺ったことがある。
  3回出席したと記憶している 、熱海 別府 伊豆下田と
  大分歩兵第47聯隊出身で陸士同期生の 耶馬溪町出身の笹島様 
  大分市出身の佐藤様とは親戚以上の交遊があり 戦後も大変   親しくしていただき 私たち兄弟の就職や結婚もお世話いただいた 
  両家の皆さんと代は変わったが 今もお付き合いは続いている

 自費出版しご遺族に配布した 独立歩兵第13聯隊(泉5316) 第3大隊の戦記慰霊集
 「レイテ島 カンギポットに散華せし父を偲ぶ」は 公的機関では 靖国神社偕行文庫 、昭和館、国立国会図書館本館
、同館関西館、 静岡県中央図書館に寄贈した


〇 厚労省の「在レイテ島慰霊碑調査」に協力
  戦後 戦友会・遺族会等の関係者により南方戦線各地に慰霊碑や供養塔の類が無数   に建立されてきたが、戦後50年を境に現地巡拝者も激減し
   中には訪れる人も無く   荒廃した慰霊碑もあり 時々訪れる巡拝団も憂慮し何とかしなくてはと当局に要請して
   いたが厚労省が 平成15年漸く現地調査することが決定、レイテ島の実地調査
   を委託にされた「偕行社」の須佐道太郎氏 川尻時雄氏より協力要請があり 靖国神社   近くの偕行社応接室で2度に亘り 在レイテ島の慰霊碑 写真 地図持参、
    管理人や   維持費など知る限りの情報を提供した。調査帰国後 厚労省へ提出の報告書控を   頂いている


「NHKのテレビ放送」の取材協力
  平成20年8月 NHKが放映した「兵士の証言 レイテ決戦」の取材に応じた。  取材要請は20年の3月頃 相原公郎氏を通じて依頼があり、その後日程が合わず
  遅れて 6月3日 神田駅構内の喫茶店でデレィクターと正味3時間特に私へは   泉師団の戦記と和号作戦について重点的に取材を受け戦記の解説から少ない
  生還者の中で更にご健在の方4,5名教示しました。その後泉師団関連の戦記を  著した書籍ミカン箱一杯程 送付、最後は生還者の証言(出演)が得られず事前
  にお断りもありましたが放送されませんでした。後日取材協力者にハイピジョン  放送(1時間半)と一般放送(1時間)のDVDが送られてきました
  放送の最後の取材協力者氏名欄に私の名前があり

TBSテレビの取材に協力
  21・4・16 東京市谷のグランドヒル市谷の喫茶室で2時間応じた
   今夏放送予定の「仮題 赤紙1枚で」 滋賀県出身で赤紙1枚で 召集され 
   レイテ戦サマール島で戦死された一兵士のドキューメンタリーで 関係書籍や
   資料を持参し解説 説明した


○「NHK」総局ジャパンプロジェクトの取材に協力
  22・3・4 突然メール連絡があり 遥々東京から2名我が家に来訪 レイテ島   カンギポットから終戦後3年経た昭和23年に山中から出て投降した朝鮮半島
   出身の志願兵について取材を受けた
   部隊名は第14方面軍貨物廠の一兵士で 関係の書籍にも記述は無く 戦後   我々関係者では初めて聞かされる事実であり 結局終戦前のカンギポット周辺の
   戦記説明を私の知識から説明した   事前にお断りもあったが 放送はレイテ戦に触れなかった

○「名古屋テレビ」の取材に協力 22年9月12日 放送
  本「HP」に記述の 輸送船史上最大の悲劇と云われている玉津丸のついて   最初は20年9月静岡の慰霊祭場で 海上を12日間漂流後生還した中嶋秀次氏
  続いて今年になって(22年)我が家に2度来訪 取材を受けている  「バシー海峡〜知られざる惨劇の記憶」で大阪朝日放送で9月11日(土)
   深夜25時(翌早朝の1時)
   事前にテレビ局より放送日時の案内があり メール ハガキ等で130名
   超の関係者にお知らせした
  最後の字幕に取材協力者として私の名前が紹介されている

〇 月刊誌「正論」サンケイ新聞社出版 平成18年2月号 
   〈本文は246pに掲載)                        
   
 「戦跡歩く」 牧野弘道著に
  私のことが掲載 されている

 (上)写真はシラッドの慰霊碑前にて
            
 (下)慰霊碑からシラッド湾を臨む
   上下とも同誌 巻頭の写真集より

〇 第17回東海地区比島戦線を記録する会(平成15年5月17日 
   於 愛知県中小企業センター)で
   1時間40分  演題は「泉師団のレイテ戦記」について 講演した     此の会合は20年近く 名古屋駅前の同センターで開催されてきたが常に
     5,60名の出席で盛会であった 当日は特に私から個人的に旧知の地元    泉師団関係者に出席をお願いし40名を超える方が新たにご来場頂き 
    全体で120名を超える大盛会となり 感激も一入泉師団戦没者の供養が    できたのではないかと思っている


大阪府遺族会で講演  大阪護国神社境内 遺族会館に於いて
   21・4・3 住之江会(大阪府遺族会の遺児の会)出席者64名で    「私の慰霊活動」と題して 75分講演した
    過去私の50年間に亘る慰霊活動に関し語ったが出席者の皆さん    熱心に聴いて頂き 中には涙された婦人もおられ 自分として
    満足の行く講演が出来たと思っている


〇 現地 レイテ島への慰霊巡拝するには
  @日本遺族会主催 フイリピン慰霊友好親善訪問団(通称遺児巡拝団)に参加    此の制度は平成3年に発足 年2回実施 自己負担は10万円 
    住所地の遺族会に    申し込み

  A厚労省主催の慰霊巡拝団に参加
    申し込みは最寄の市役所 町役場の社会福祉関係の部署 総費用    の3分1は国が助成

  B部隊遺族会の巡拝団に参加 
    第1師団 第16師団 第26師団などは今でも毎年巡拝団を組織     して現地へ行っている

  C都道府県の遺族会巡拝団に参加
    郷土出身の多い府県の中には 現地へ巡拝団を派遣している
 
 D旅行会社主催のツアーに参加
    P・I・C(比島戦跡訪問代表 倉津幸代電話03−3598−6130)

フイリピン慰霊友好親善訪問団レイテ班参加者には
  過去多くの方に資料を提供している

  平成3年からこの制度が発足 年2回 現地へ巡拝していますので 現在までに500名  近くの遺児の皆さんが父の戦没地 レイテ島に巡拝していることになる
  私の知る限り 巡拝団に参加帰国後 以降年次ごとに 各班毎年 当時の感激を  忘れずに同窓会を開催していることを承知いている
  中には平成10年の参加者は その後自分たちでツアーを組み2度現地へ巡拝  している
  同じ部隊 同じ地域に居住しながら 参加年次が違えば お互いに一切交流は無い  過去 2度 私は 日本遺族会に対し申し入れ 請願したことがあるが 年次を跨り 
  巡拝団参加者の「レイテ島 遺児の会」を組織化して欲しいと日本遺族会の組織
  強化の1助になるのではと思っている


 父の属した独歩第13聯隊のHPは

@ http://www.geocities.jp/tamatumaru/index.html 「バシー海峡 海の底」
   大叔父が玉津丸に乗船し戦死されたご遺族 (静岡県在住)の作成

A 「フイリピン(レイテ島)慰霊旅」     
   父と最後まで同じ大隊で戦闘 シラドで4月10日戦死された 第12山本中隊長の    ご遺族(福岡県在住)の作成

B 「レイテ島に父の面影を尋ねて」    
   ご遺族 (静岡県在住) 加藤寛氏の作成
  
 ご遺族ではありませんが
C 「ぶらり重兵衛の歴史探訪」   茨城県在住  S氏の作成

D 「フイリピン セブ  レイテ島慰霊旅」  
   大阪府在住  M氏の作成
   上記作成者〈管理人)とは何れの方とも親しくご厚誼を頂いています。

E 「大岡昇平ノート」重松大隊の最後〜『レイテ戦記』にみる
  第26師団・補遺

F レイテ関連のHP 並びに プログの検索は私の日課の一つですが遺児
   遺族の皆さんが現地巡拝した時の感激を記述され開設されており内 投稿欄の   あるものには必ず 私はコメントを入れています。
   その後 この方々と(作成者 管理人)メール交換に発展し親しくなった同じ遺族  仲間(メル友)も最近増加しています
 

  最近の10年間レイテ参戦部隊のご遺族に私から資料を
  提供した方の部隊名は


@ 第26師団(泉師団)独歩11聯隊、独歩12聯隊、独歩13聯隊, 野戦病院、
   工兵聯隊、 輜重聯隊  砲兵聯隊など 師団全て

  ご遺族は部隊の郷土 静岡 愛知 岐阜の東海3県に集中しているが   師団創設の経緯から一部九州出身と近畿地区 並びに東北地区も
   存在   泉師団傘下で戦闘した第138兵站病院(ご遺族は全国)、   独立工兵第65大隊(ご遺族は近畿地区)


A 同じ和号作戦(高千穂部隊では天号作戦と呼称)に参加してブラウエン
   飛行場に落下傘降下した高千穂降下部隊 第3聯隊 、 バレンシアに降下した   第4聯隊〈ご遺族は全国)


B バシー海峡で海没した玉津丸に 乗船の部隊、独歩第13聯隊第2大隊、
  第155飛行場大隊、第22野戦重砲聯隊、独立重砲第4大隊、  独立速射砲第19大隊、第139飛行場設営隊など 15ケ部隊


C ブラウエン飛行場部隊 第98飛行場大隊 第54飛行場中隊 第114飛行場   大隊(ご遺族は何故か東北地区の方が多い)

D 第16師団(垣兵団)の各部隊 近畿地区に遺族が集中しており部隊
   生還者やご遺族とも多くの方とご厚誼を頂いている 国内慰霊祭にも   何度か参拝、皆さんから 沢山の関係書籍も頂いた
   部隊の郷土 三重 滋賀 福井 京都に ご遺族集中


E 第1師団(玉兵団)の部隊 関東地区の部隊で生還者も多く沢山の
   関係書籍もあり各遺族にも戦史情報も徹底している、多くの   関係者とも親しくしている(部隊の郷土 千葉 神奈川 山梨に   ご遺族は集中)


F 第68旅団(星兵団)歩兵第126聯隊  父の従兄弟も在隊し   おり少ないが過去に資料は提供した
   満州にあった陸軍公主嶺学校 在校生を以って編成された   部隊故に ご遺族は全国区国内慰霊碑は三ケ根山 比島観音   境内にある


G 第30師団(豹兵団) 今も師団慰霊祭は大阪で実施されている。 
   歩兵第41聯隊(福山)、歩兵第77聯隊   (平壌編成で国内慰霊碑は下関市にある)関係書籍もある
   歴史のある 両聯隊であるが ニューギニア戦線で玉砕し再編成されて   いるので 全国にご遺族は跨る


H 第102師団 (抜兵団)独立歩兵第169大隊(西村大隊) 独立歩兵第171大隊(田辺大隊)
  熊本兵団傘下の此の部隊は多くの戦記に部隊名は登場するが    部隊史は存在しない、生還者も存在すると聞いているが 
   戦後遺族間の交流もなく 情報も伝わっていない    断片的な資料しかない
   九州 四国地方のご遺族が多い 此の部隊のご遺族が最近は   巡拝者が多い

I 其の他の部隊
  △ 独立自動車第328中隊   △独立自動車第63大隊
   △ 第33特別根拠地隊      △高射砲第76大隊
   △ 第22野戦気象隊       △臨時陸上勤務第1中隊
   △ 電信第27聯隊         △特設第65機関砲隊
   △ 独立有線第96中隊      △独立戦車第7中隊
   △ 第311海軍設営隊      △i伊東海軍戦車隊
   △カモテス支隊

J 海上挺進基地第10大隊 、戦隊
  この部隊は第1大隊から第30大隊までありレイテ戦に参戦した第10大隊  の資料はない よって大隊は違うが 同じ兄弟部隊戦記である次の書籍
  を薦めている 書籍名は レイテ文庫B−4に記載  記録によれば 父の後輩である熊本陸軍予備士官学校の教官 助教の
  皆さんの多くがこの戦隊の隊長として戦死されている


K 第1開拓勤務隊  近畿地区のご遺族が多い
  第3次多号作戦で出発しオルモック湾で全滅したこの部隊は資料は無い  唯 第26中隊から第30中隊までの5ケ中隊300名が泰山丸他2隻に分乗したことは
  数冊の戦記に記述されている
  第2開拓勤務隊はルソン島で戦闘し生還者の手記もあり俗称 昼間部隊と  言われていたことを聞いている、現地で食料を自活自戦の目的で編成された部隊
  で年配者が多かったそうである  直接の関係書籍はないが 下記書籍がある  @ルソンに南瓜実らず  第2開拓勤務隊の生還者の手記
  A比島兵站を支えた影の力 第2開拓勤務隊行動概要と地点別戦没者名簿   付録 戦死者名簿

L独立工兵第65大隊   大阪府高槻市編成
   この部隊は独歩第13聯隊第3大隊が和号作戦遂行のため進撃の際 協力した部隊で    近畿地区出身者で大阪高槻で編成されご遺族 「とうしあ泰三」氏が
    追跡調査され    自費出版された「独立工兵第65大隊の戦い」に詳細に記述されている
    この慰霊集には 私の父の最期の手紙も掲載されている。過去5名の方に資料を    提供したが 数年前此の方々と遺族慰霊会を大阪駅近くで開催した


M 輸送船「赤城山丸」サンイシドロ港で干潮時には「マスト」が突出し
   慰霊団の涙を誘っていたが 数年前比島政府の手で引き上げられ   たと聞いた。船内にはご遺骨もあったのではなかろうか
   靖国神社で第1師団慰霊祭のおり同船のご遺族がおられ資料や   戦没者名簿を頂いた


  以上 の各部隊ご遺族に資料を提供した。その際 特に戦史研究家と
  して著名な添田裕吉様から更なる資料も頂き添付した

N第102師団(抜兵団) 独立歩兵第170大隊(パナイ島) 熊本編成
  レイテ参戦部隊でないが パナイ島で戦闘したこの部隊については関係者から資料や   書籍を頂いていたので戦後長年に亘って開催された部隊慰霊祭や 関係戦記
   資料も完備、過去 ご遺族 6名に資料を進呈している   国内慰霊碑は熊本県護国神社境内の社殿 直ぐ横にあり 慰霊碑の裏面の文言には   泣かされる

 活動を通じて
   @ 郷土を持たない広範囲の出身者で編成された部隊
    A 第1師団、第16師団、第26師団などと違い 小人数部隊でそれも末期になって
    急編成された部隊  最近巡拝される方は上記の方が多い    従って 国内に部隊慰霊碑も無ければ部隊の遺族会も存在しない此の部隊の
    ご遺族は一部を除いて戦死公報以外の情報は伝わっていないと特に痛感する

◎レイテ決戦に参戦した将兵のうち一般に参戦者85,000名戦死者は97l、 生還者は3l2,500名)と報道されているが実際の生還者は 0.3lである
 其の証拠に父の属 した泉師団(第26師団)は生還者の数字の中に650名が生還とされており  この数字にはマスバテ セブ島
 から生還した兵士も含まれており レイテの生還者は 27名(レイて島に上陸し戦闘に参加)である 実際はこの生還者の数字には暁部隊等の揚陸作戦に参戦した
 兵士(短期間の戦闘に参戦)や 軍命令で第1師団の一部(軍司令官とともに 再起を期して 離脱しセブ島に転進700名)
 更にレイテ進出途中に 輸送船が海没して レイテ島目前でマスバテ島セブ島に漂着した人も含まれている 
 レイテ島に上陸し実戦に参戦した将兵の内 生還した将兵は 戦闘中に捕虜となった者 凡そ200名

 (負傷 飢餓で人事不省の所を米軍に収容)前後である
  
 レイテ決戦が最終的には自活自戦を命令され  カンギポット周辺に集結した将兵は1万数千名と いわれているが(20年2月現在)米比軍のその後の
 執拗な掃討作戦と更なる飢餓と病で逐次消滅 終戦後 この地域から生還した将兵は 私の知る限り 2名である戦後 レイテ戦史追跡調査の過程で
 積極的に生還者に面談したり 手紙を出したが 多くの皆さんが一兵士で 戦闘した場所 日時 記憶が全く無く只々上官の命令で飢餓と疲労の蓄積の中、
 只管夢中で戦闘一様に申されるのは 「軍隊」は「運隊」であると 運の積み重ねで生還できたと 生還者の内 慰霊祭や戦友会に 率先積極的に参加出席され
 遺族の前に 顔出しされ語る方と、 接触を避けて密かに慰霊には努めているが 一切黙して語らずの方の両極端に別れる


尊敬する作家の田中賢一先生は著書の冒頭に次の如く書かれている 『レイテで戦った各部隊』の行動は生還者が少なく、不明の部分が多い。
戦死者の一人一人に至ってはいつ、どこで死んだか判明しているものは暁天の星より少ない。
個人の足跡は無理としても、せめて所属部隊の行動を少しでも世に明らかにすることが出来れば、これは最大の慰霊であろう。