![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
部 隊 関 連 戦 記 レイテ決戦 部隊別戦没者数一覧 (日本軍のレイテ島投入兵力と戦没者数)
投降した将兵は皆無と伝わっているが 実際は3名存在 本表は 大岡昇平のレイテ戦記より イテ決戦は 97l戦死、生還者は3lと云われているが 此の数字には甚だ疑問がある 例えば 泉師団は生還者数620名とあるが(※印) レイテからの生還者は実際は 27名である 此の数字の差は レイテ参戦の為 マニラ港は出港しているが 航路途中のマスバテ島 或いは セブ島に 乗船海没などにより漂着,後に上陸米軍と戦闘し生還した兵士も含まれている広い意味で解釈すれば 係るパーセントに なるが 実際は 0.3l以下の生還率となる 尚 垣兵団(第16師団)も580名生還とあるが サマール マスバテ島などに分散駐留し生還した兵士も含まれている
南方総軍 (シンガポール 寺内寿一元帥) ↓ 第14方面軍(マニラ 山下奉文大将 参謀長 武藤章中将) ↓ 第35軍 (レイテ 鈴木宗作中将 参謀長 友近美晴少将) ↓ レイテ参戦の各部隊 師団 旅団 支隊 聯隊 大隊 s19年 10月17日 米軍 レイテ湾 スルアン島上陸 18日 レイテ島日本軍に対し艦砲射撃開始 19日 第16師団司令部 タクロバンから南西 12キロのサンタフエに後退 20日 米軍 4ケ師団 タクロバン パロ ドラグに上陸開始 〃 第14方面軍 従来の方針を変更し レイテ決戦に変更 22日 ドラグ地区 歩兵第20聯隊 殆ど全滅 師団司令部もダガミに後退 23日 陸海軍航空部隊 レイテ湾の米艦隊に総攻撃開始 パロの 歩兵第33聯隊鈴木聯隊長 本部の手兵数十名を率いて 敵陣に突入 第16師団歩兵3ケ聯隊のうち 2名の聯隊長 戦死 遊兵の発生 24日 米軍 ブラウエン3飛行場占領 25日 天兵大隊 500名(独混57旅団) 独歩364大隊(独混55旅団1,000名 オルモック上陸 26日 豹兵団 歩兵第41聯隊 2,500名 オルモック上陸 27日 抜兵団独歩169大隊(1,000名)オルモック上陸 〃 カトモン山 の歩兵第9聯隊 第1大隊 ダガミに後退 〃 抜兵団 独歩171大隊(1,000名) オルモック上陸 30日 第16師団の要望による 電信第27聯隊 858名 (内400名は11月1日 第1師団とともに 陸軍SS艇でオルモック上陸 11月 1日 第1師団 主力(10,000名) オルモック 上陸 今堀支隊(1,400名) オルモック 上陸 2日 第35軍 鈴木軍司令官 セブ島よりオルモックに進出 3日 歩兵第9聯隊 ダガミにて米軍382聯隊を迎撃 組織的戦闘は 6日まで続くが 米軍は血の稜線戦闘と呼称 以降 日本軍は脊梁山脈洞窟陣地に後退 5日 第1師団 リモン峠で米軍との戦闘始まる 11日 第26師団主力(10,000名) 上陸するも 重火器はは揚陸できず 〃 第1師団 (4,000名)の残部上陸 13日 リモン峠に て第1師団野砲第1聯隊 初弾発射 15日 第14方 面軍 武藤参謀長 レイテ島から米軍を追い落とすことは不可能と 総軍大本営に進言 回答 はレイテ戦は決戦中であるの 一言にみ 〃 豹兵団 歩兵第77聯隊 第3大隊(野中大隊) オルモック上陸後 斎藤支隊傘下へ 18日 リモン峠で第1師団の善戦に 米第24師団長を解任し 新たに32師団長と変わる 21日 歩兵第49聯隊 16日以降再再斬り込み隊派遣 23日 東海岸 パラナス丘付近の戦闘で斎藤支隊 善戦 死闘を繰り返す 26日 義号作戦 中重男 中尉率いる薫空挺隊 80名ブラウエン飛行場に胴体着陸 27日 歩兵第77聯隊一部 パロンボン上陸 12月 4日 歩兵第77聯隊 第2大隊 バロンボン上陸 5日 夕刻 和号作戦 第16師団残存1,000名北ブラウエン飛行場に斬り込み 6日 午后 高千穂落下傘部隊 第1次462名降下 〃 夕刻 独歩第13聯隊第3大隊(重松大隊) 和号作戦 南ブラウエン飛行場斬り込み 連 日 4・5人単位 の斬り込み隊を70組 派遣 多くは帰らなかったようで 戦死者名簿では 860名戦死 7日 米軍第77師 団 西海岸イピルに逆上陸 北上を開始 第68旅団 6,800名 サンイシドロに擱座上陸 独歩第380大隊上陸するも重火器の大半を揚陸出来ず 8日 残部の空挺部隊 高千穂降下部隊 430名バレンシアに降下 〃 歩兵第77聯隊2ケ大隊 バロンボン上陸 〃 第26師団斎藤支隊 オルモックに反転命令 11 日 青森歩兵第5聯隊高階支隊(上陸時 輸送船2隻が撃沈され多数戦死) カモテス支隊 (武井定男大尉) バロンボン 上陸 〃 日本軍オルモック陥落 18日 高千穂降下部隊第3聯隊長 白井垣春少佐の軍隊手帳から重松大隊長とマタクバ東北4キロのジャングル で遭遇せりと 記録あり その後重松大隊と行動を共にし 287高地付近で野中大隊と遭遇 19日 第35軍司令官は 第14方面軍司令官より レイテ決戦の打ち切りの命令を受諾 20日 高階支隊 リモンガワまで 進出 北上中の米軍と激しく抵抗激戦を展開 21日 第1師団 カンギポットに向けて転進開始 〃 南進中の米軍と イピル上陸の米軍 合体 25日 第14方面軍 レイテ決戦を放棄 自活自戦を命令 28日 第35軍 参謀高橋公平少佐 和号作戦 先遣隊 重松大隊に対しカンギポット集結と転進に伴う殿軍としての 使命伝達 20年 1月 5日 抜兵団 福栄師団長無断で レイテ脱出 西村大隊の護衛付きで 2月 8日 今堀支隊 カンゴポット着 400名 2月上旬 重松大隊 カンギポット着(数十名と思われる) 師団司令部 出頭 3月17日 友 近参謀長セブ島に 転進 23日 鈴木軍司令官 セブ島転進 5月末頃 第26師団 200名生存 師団司令部山森主計曹長の手記「想像する旅」から 手記には 加藤参謀長 今堀聯隊長 東嶋副官 品川工兵聯隊長の名前がある 6月10日 父重松勲次少佐はシラドにて自決 東嶋独歩12聯隊副官の証言 7月 4日 今堀独歩12聯隊長 自決 東嶋大尉など20名は3班に分かれ行動(司令部への報告のため生管者は) カンギポットからの東嶋大尉(独歩12聯隊)茶園曹長(挺進第4聯隊 当時は加藤参謀長の当番兵) 永田勝美(歩兵第77聯隊) 山口喜蔵(第35軍司令部)の各氏4名 書籍により違いがありますが 20年2月 カンギポットに集結した日本兵は 20,000名 15,000名 12,000名 という記述が存在 少なくとも 10,000名以上が生存
特に部隊名が 赤 表示は充実 尚 備考欄の 月日 地名は当部隊の主たる 戦死公報(一括認定)を表記、 部隊名の後の @ A B Cは別途の資料所有 (レイテ文庫欄参照)
◎レイテ島展開航空地上諸隊 第16師団直轄となりキリンに集結。以降米軍砲爆撃下 後方と前線間の兵器 物資の輸送業務 10月20日 米軍4個師団10万タクロバン平野上陸、捷1号作戦開始、圧倒的な火力と兵力を背景に 上空は飛行機戦車を先頭の米軍に第16師団は各地で爆砕され3日間で第一線後退,22日 第16師団司令部は ダガミに後退独立自動車317中隊戦死戦傷者続出 10月31日 米軍ダガミ進攻 司令部ロビ山に転進 独立自動車317中隊は全車両を失い残存将兵は 司令部に続き山中に入る 以降ロビ山 ダナオ湖 ドロレス(1月下旬)リボンガオと山中を北進、 リボンガオでは米軍制圧下の 国道をゲリラと交戦突破 西進、再び山中に入り3月下旬極少数がカンギポット集結地に到着した 雨季の最中 密林を昼は敵機 夜はゲリラを警戒 食なく 薬なく 傷つき飢え次々と斃れていった。 カンギポットには何名到着したかは不明 終戦後の生還者も見当たらない 同中隊の戦死公報は すべて20・3・17カンギポット戦死と認定処理された模様である。 ○独立自動車第328中隊(威 17632) 村山晴夫中尉以下140名 昭和19年6月9日 熊本にて編成 指揮班3ケ小隊 修理班 貨車約40台 7月6日 大阪出港、 7月25日高雄入港 、8月31日高雄出港、9月7日マニラ上陸、輸送業務開始 10月20日米軍レイテ上陸、11月9日レイテ作戦に参戦のためマニラ出港(午前1時40分)多号作戦 第3次輸送、泰山丸 11日泰山丸米機300機の空襲により沈没 ※独立自動車第328中隊は第34航空地区司令部 新田中佐の指揮下 に入る予定であった。 〇泉5316部隊の当時の遺族宅への戦死公報及び第3大隊の戦記 戦後 戦没者宅に通知された戦死公報 (以下の死亡認定理由書)に部隊戦史について大まかな説明がされているので 原文とおり ここに記述 紹介します。 当時のカナ使いで 原文に忠実に模写してあります 死 亡 認 定 理 由 書 本籍地 〇 〇 県 所属部隊 独立歩兵第十三聯隊 階級氏名 陸軍〇〇 〇〇 〇〇 T.認定戦死年月日及場所 戦死 年月日 昭和19年〇〇月〇〇日 場所 レイテ島 〇 〇 U.認定戦死前後ノ状況(別紙要図参照) 1 「レイテ」作戦前の状況 第26師団ハ昭和12年11月26日北支蒙彊ニテ編成 次イデ昭和19年7月中旬同地出発山海関釜山形経由(準備の為約一週間釜山滞在)比島ニ 向フ 8月19日未明「バシー海峡ニテ敵ノ魚雷攻撃ヲ受ケ「玉津丸」沈没独立歩兵第13聯隊ノ主力(5316)海没セリ 兵団ハ8月22日「マニラ」上陸 (一部ハ船舶ノ故障ニヨリ「北サンフエルナンド」ニ上陸)後10月下旬迄中部ルソン「タルラック」附近ノ警備ニ任ス 2 「レイテ島」ニ於ケル行動ノ大要 兵団ハ先遣支隊(独歩12(U欠)工兵26聯隊基幹)及主力ノ 二ケ梯團ニ別レ先遣支隊ハ10月28日主力ハ 11月9日夫々「マニラ」ヲ出発「レイテ」 島ニ向フ先遣支隊ハ何等敵ノ妨害ナク 11月3日「オルモック」ニ上陸セリ 主力ハ途中空海ヨリスル敵ノ妨害ヲ受ク 1部ハ「マスバテ」 「セブ」島ニ 遭難ス之ガ為メ「オルモック」上陸ノ日時ニ若干差異アリ 当時天候極メテ不良ニシテ「オルモック」湾到着セルモ上陸効程進捗セズ加フルニ敵機及 敵艦ノ妨害アリ之ガ為メ人員ニ若干ノ損害ヲ生ジ 外 装備ノ相当数及軍需品の大部ハ海没シ戦斗力著シク低下ス 兵団は取リ敢エズ 「オルモック」南方地区ニ兵力をヲ集結シ示後前進ヲ準備ス 3 「アルベラ」附近の戦斗及「ブラウエン」作戦準備 兵団ハ11月12日軍命令に基キ 「バイバイ」ノ敵ヲ攻撃スベク斉藤支隊(独歩13)主力11ノ小笠大隊ヲ派遣ス 同隊ハ「アルベラ」南方地区ニ於テ 有力ナル米軍ト遭遇ス此ノ間 兵団ハ逐次兵力ヲ集結シ一部ヲ以テ「ブラウエン」作戦ヲ準備即チ工兵隊ハ全力ヲ以テ作戦路ノ啓開ニ任ジ 11月15日ニハ 独歩13ノV(長 重松勲次少佐)「ブラウエン」攻撃ノ為メ出発ス 次イデ軍ノ和号作戦ノ企画明カトナリ11月30日司令部ハ[ルビ」ニ移動シ該方面ノ地上攻撃ヲ指揮ス 斉藤支隊は執拗ナル敵ノ攻撃に対シヨク 「アルベラ」附近ヲ保持シアリシモ敵ノ師団ヨリスル浸透ニヨリ包囲セラル加フルニ12月7日米軍「オルモック」湾「イピル」上陸スルニ及ビ 「ブラウエン」作戦中止セラレ該方面作戦部隊ト斉藤支隊トハ全遮断分離ノ状況トナリ常ニ米軍ノ攻撃ニ対シ猛烈果敢ナル戦斗ヲ続行シアリシモ 支隊ハ遂ニ12月20日未明最後ノ攻撃を実施セルモノノ如ク消息ヲ絶ツニ至レリ 4 「ブラウエン」飛行場の戦斗 本戦斗ハ「垣兵団」空挺部隊(高千穂)トノ協同作戦ナリシモ進路嶮峻ノ為「ルビ」方面ヨリノ作戦部隊ノ「ブラウエン」進出やや遅延シ予期ノ如キ 成果ヲ収ムル能ハザリキ即チ重松大隊ハ数次ニ渡リ奇襲強襲ヲ続行シ第3次攻撃ヲ以テ「ブラウエン」飛行場を占領セルモ敵ノ反復攻撃熾烈ニ シテ之ガ確保至難トナリ遂ニ「ブラウエン」撤去ノ止ムナキニ至レリ 12月12日部隊ハ「タリサヤン」集結ノ為メ転進開始ス 是ヨリ先 12月8日頃 米軍ハ「ルビ」 「ブラウエン」中間地区ニ空挺部隊ヲ降下セシ為メニ転進部隊ハ「ブラウエン」西方約10粁付近ニ於テ進路ヲ阻止セラレ密林中 不期戦斗ヲ惹起コシ混戦ノ後12月22日頃以降 重松大隊ハ全ク主力トノ進路ヲ絶チ該方面ノ状況詳カナラザルニ至リ 5 兵団主力「タリサヤン」集結ノ状況 兵団主力ハ12月25日ヨリ「タリサヤン」附近ニ集結ヲ開始ス 兵団ハ相次グ戦斗ニヨリ歩兵部隊トノ連絡ヲ失ヒ20年1月1日現在ノ集結兵力 1千余名ニ減ズ当時ノ集結部隊ノ主ナルモノ左ノ如シ師団司令部 師団通信 師団兵器勤務隊 野戦病院 病馬廠ノ主力独立野砲兵第11聯隊 輜重兵第26聯隊ノ一部歩兵部隊ノ残余者(註 野砲 輜重 野病、ハ「オルモック」「アルベラ」間ノ資材輸送並ニ患者ノ収療等ノ為メ相等ノ 損耗アリシモ明カナラズ同地ニ 於テ兵団ハj若干ノ編成装備ヲ整ヘ北部「レイテ」ヘノ転進整備ヲ為セリ20年1月3日項ヨリ数次ニ亘ル敵ノ 空陸ヨリスル攻撃ニヨリ「タリサヤン」東方地区ニ集結中ノ野戦病院(患者ヲ含ム)輜重兵第26聯隊ハ玉砕セリ 6 「シラッド」集結迄の状況 20年1月3日兵団ハ米軍ノ包囲ヲ突破シ「タリサヤン」出発1月10日「ダナオ湖」西地区ニ於テ「垣」兵団ニ追跡スル敵と遭遇之ト交戦シ 師団通信隊ノ大部ヲ失ウ20年1月20日「バレンシヤ」飛行場ニ突入之ヲ占領スルモ猛砲撃ノ為メ多大ノ損害ヲ受ケ特ニ司令部関係ノ損傷 大ニシテ兵団長及幕僚悉皆重傷(一部戦死)セリ1月23日同地発 「リボンガオ」ヲ経テ軍ノ自治地域タル「シラッド」附近ニ前進シ途中地形ノ 嶮補給ノ困難等ノ悪条件ヲ屈服シツヽ2月11日「カンギポット」山ヲ通過 「シラット」ニ到着シ同地ニ於テ先遣支隊(独立歩兵12(U欠)ヲ掌握ス 先遣支隊ハ11月3日「オルモック」上陸後「ラマオ」山ニ進出 不断ノ挺進奇襲ヲ以テ「ハロ」方面ヨリスル 敵ノ前進ヲ制シアリシモ12月7日米軍「オルモック」湾逆上陸ニ伴ヒ軍命令ニヨリ反撃作戦ヲ実施シ 20年1月3日迄「オルモック」東南地区ニ於テ所在部隊ト共ニ勇戦奮斗シタルモ遂ニ敵ノ突破スル所トナリ軍ノ自活地域ニ 転進ス 此ノ間 立石大隊玉砕シ兵力2割程度ニ減ズ 支隊ハ1月15日「ナグアン山」附近ニ 於テ「バロンボン」ニ上陸セル米軍ノ攻撃ヲ受ケ通信中隊 全滅シ2月11日「シラット」兵団司令部ノ追求時ノ僅カ5、60名ニシテ同地域集結時ノ兵団全将兵力ハ約450名ナリ 2月15日兵団長山県 中将戦死ニ伴ヒ軍命令ニヨリ沖少将兵団長トナル 7 「シラット」集結並ニ其後ノ状況 「シラット」附近集結ト同時ニ自活自戦ノ態勢ニ移リ持久戦ヲ準備シタルモ数次ノ砲爆撃ノ為メ逐次戦力消耗ス殊ニ20年3月10日米軍ノ 猛攻ニヨリ独立野砲11聯隊及ビ兵器勤務隊ハ最後的突撃ヲ敢行シ全員玉砕セルモノノ如シ示後逐次米軍ノ攻撃ニヨリ兵力愈々消耗シ 最後ノ複廓タル「カルブコス」山ヘ移動 当時兵力ハ約6、70名なり「カルブコス」ニ対スル米軍ノ最後的攻撃ハ7月3日ニシテ兵団残存者ハ 軍旗奉焼最後ノ突撃を実施セルモノノ如ク全ク 消息ヲ絶チ終戦ニ至レリ V採リタル捜索手段 終戦後米軍ノ援助ニヨリ「レイテ」島内兵団主戦場附近ニ再度捜索員ヲ派遣セルモ遂ニ生存者発見シ得ズ W死亡認定ノ理由 戦況第U項ノ如ク又捜索ニ関シテモ種々手段ヲ尽シタルモ生存者発見セズ且比島方面ノ復員完了シ抑留者名簿等ト照合セルモ 該当者ナク 従テ比島方面ニ残存ノ事実ナキト推断セラルルヲ以テ第U項ノ時期地點ニ於テ各々最後 ノ突撃ヲ決行シ全員玉砕セルモノト認メラル 但シ 戦況ノ推移極メテ複雑ニシテ各地點時期ニ於ケル戦死者ノ確認困難ナル 実情ニアルヲ以テ所属隊 不明ノ者ハ各上級部隊の玉砕日地點ヲ 以テ戦死ヲ 認定セリ 昭和22年7月10日 第14方面軍残務整理部長 久米川 好春 第26師団 独立歩兵第13聯隊 第3大隊の戦史
北支(厚和地区)駐留から転進し南方戦線(対米戦線)レイテ島にて玉砕までの部隊戦史 19・07・06 泉師団への南方戦線への参戦命令は 多くの戦記や戦史では7月7日なっているが、父からの手紙 (7月6日付け)では第3大隊 は7月3日討伐作戦(河南作戦)の為 駐屯地 厚和を出発、折りしも非情なる重大命令に接し翌4日帰着、目下準備に忙殺中と ありこの時点で既に大命は通知されていたと思わられる エンピツ書きのこの手紙の末尾に寸暇を惜しんでこの手紙を書いているが 出発までには今一度手紙を出す、いずれにしても 今回の出撃は「生還は期し難いと あり」 覚悟の程が示されている 19・07・14 7月14日付けの手紙では営庭にて第3大隊千数百名の軍装検査を実施とあり母宛てには今後の私たち兄弟の将来について、 又 私、 弟 夫々分別してカタカナにて父亡き後の行く末について書かれている 19・07・22 聯隊は3梯団に分かれて、 一部の残留者や病にて入院加療中の者全てが見送る中、鉄路厚和駅を出発最後の第1大隊は 午後2時出発当時 聯隊将兵の内各種 学校に派遣中の者もおり 大部分は原隊復帰をしているが 一部は帰隊命令が急の為 間に会わず帰着時には 原隊は 出発した後で 止むを得ず留守部隊編入されたものもいる この転戦命令は秘密裡に発令 されていたが 何処でこのことを聞いたのか途中の幾つかの停車駅では過っての部隊在籍者などの関係者が差し入れをしたり 激励の為 面会に来ている 19・07・28 12時までに釜山港に 全部隊師団集結、市内小学校などに分宿 乗船 水泳 対潜の戦斗訓練に励19・08・01 釜山市内のある写真館より 父の写真送付あり(陸軍少佐肩章を付けて)如何なる手段で今となっては不明であるが 我が家では部隊が釜山港まで来ていることは承知していた、07・06付けの手紙からして母は私たち兄弟を連れて面会に 行くべきか 否か随分と迷ったそうである、 結局 幹部将校の立場を考え女々しい行動は厳に慎みなければと決断し断念 したといっている。戦後の慰霊祭で親しくなった 山本第12中隊長のご遺族は当時 京城(ソウル)市内にお住まいで妹さんが 面会に行かれたそうである。中隊長は既に出発間際で乗船していたが わざわざ降りてきて最後の面会をされたことを聞いて いる 又 安尾聯隊長のご遺族から 出発前夜 部隊幹部による壮行会が開催され 父聯隊長は歌を唄い元気で出発したと この壮行会に出席した大本営から派遣された参謀から 留守宅に連絡があったそうである 19・08・上旬 留守部隊から父の私物 軍用行李2ケの送付あり軍刀一振り 下着 靴下等多くの冬用の衣類があり この転進は南方地区への 転進が伺える 19・08・07 第1大隊を除き 釜山港第2埠頭から出港、 第3大隊本部 第3機関銃中隊第9中隊 第10中隊 第11中隊 第12中隊と 第1機関銃中隊 他の部隊4千数百名は 香椎丸に乗船 生還者の証言によれば 父は香椎丸の乗船者隊長として 常に艦橋に居て双眼鏡片手に監視をしておる姿が目撃されている 19・08・08 30数隻の船団で 内地 伊万里湾へ 船上から港の魚市場での人々の往来が散見され 久しぶりの内地を見て 将兵22 19・08・15 折からの台風を避け台湾 馬公に寄港、 埠頭には白い砂状のものが山積みされており それが砂糖であった由 当時 内地 では 既に砂糖は欠乏しており肉親に食べさせたいと思ったそうでそれに 輸送船に横付けし現地台湾人が物売りに来たと 将兵は例外なく バナナを購入し鱈腹食べたとのこと中には40本も食した猛者もいたと 19・08・17 馬公港 出港 船団はジグザグコースをとり航海したが 18日夜小雨降る暗夜に敵潜の魚雷攻撃により 聯隊本部 第2大隊 通信中隊 及び他の部隊計4,800名乗船の玉津丸が沈没、 僅かに尾崎大尉以下10数名が救助されたに過ぎない この10数名も本隊に追求 後にレイテ島にて全員戦死している玉津丸海没の詳細については ご遺族 k氏作成の 下記 HP「バシー海峡の海の底」を参照ください ://www.geocities.jp/tamatumaru/index.html 19・08・22 第3大隊乗船の香椎丸はマニラ港 入港、停泊すること1日半で下船 一時リンガエン湾の警備につく 19・08・27 タルラック州サンミゲルに進駐 警備と演習に明け暮れる当時のルソン島は米軍の上陸も近しということで世情も不安で 何よりも将兵を悩ませたのは給与(食料)が悪く水牛の肉汁のみで 下痢患者と 栄養失調者が続出した 19・09・17 斉藤二郎大佐(第14方面軍報道部長)新聯隊長として着任、海没した第2大隊も幹部クラスは独歩11聯隊、12聯隊から一般の 兵隊は当時マニラ地区駐在の召集兵をもって補充(補充兵は主として近畿地区と東北地区出身者)約800名 当時 父は第1大隊長 斉藤少佐と共に聯隊本部 第2大隊再編に深夜まで苦労していたことが目撃されている 19・09・21 ルソン島第1回の大空襲あり 米軍の上陸近しと将兵は肌で感じた空襲であった 19・10・07 マニラに集結命令、この頃全将兵に往復軍用ハガキが渡される、この「ハガキ」が父からも我が家と叔母宅に届き今も 仏壇引き出しに格納されている 来信用の片隅を切り取り 往信用に貼り付ければ 返信可能とあり 残存のハガキにはその痕跡がある戦後 部隊の生還者に このことを確認したが 全員ハガキは書いて出したが 日本からの返信は届いていないとのこと叔母宅のハガキには 「武運目出度く目的地に到着」すこぶる元気なり 中略 のあと今回の出撃は生還は期し難いとある 19・10・10 第13聯隊 マニラに集結完了 19・10・20 米軍 レイテ島上陸 19・10・31 上海からマニラ港に 到着した第1師団の積載物の積み下ろしと 新たな追加物資の積み込みに、泉師団将兵は師団を上げて 協力 独歩12聯隊(今堀支隊)の一部も第1陣として出発 19・11・02 独立歩兵第13聯隊第1大隊は第2陣として機帆船8隻に分乗 マニラ港出港 19・11・11 師団主力は9日出港し(多号作戦第4次)11月11日早朝払暁を期して上陸の計画であったが夜明けとともに米海軍機の反復 攻撃及び上陸用舟艇の不足(前日の台風被害での損傷や他の部隊輸送のためにセブ島に出向)により重装備 軍需品の 大部分を揚陸できず 多数の兵員も損害を受け僅かに遂行兵器のみで上陸した。其の中にあって第3大隊は唯一重機関銃を 揚陸したことが証言されている。 後に迫撃砲6門増加、 ※戦後 遺族会巡拝の際、第3大隊が進撃した道程を辿ったことがあるが脊梁山脈山中よりこの放置機関銃を村民の情報 から回収し日本に持ち帰り現在静岡県護国神社遺品館に展示されている上陸後師団主力は不気味に荒れ果てたオルモック 街道を通り北方 のドロレスに集結し、一部は先遣の今堀支隊が布陣の前線基地まで進出したが第35軍司令部は師団の当初の 計画(カリガラ会戦)を変更しブラウエン飛行場奪還作戦(和号作戦)に使用することに決定 1911・12 深夜 第3大隊はこの和号作戦の先遣隊としての使命を帯びタリサヤン川の南岸を東進した独立歩兵第11聯隊のある生還者 の手記に次のごとき手記がある上陸時の疲労と相次ぐ行軍に熟睡していたところ けたたましい人馬の音に目を覚まし同僚に 聞けば、ある部隊が特命を受けて出発しているんだと 我々は今は寝ているが ご苦労なことだと思った翌朝 再度確認すると 部隊は第13聯隊第3大隊と聞いたこの和号作戦には工兵聯隊 砲兵聯隊 輜重聯隊 独立工兵第65大隊等も師団を上げて 進撃路開拓に協力 同じ時刻に出発している 19・11・15 第3大隊 マホナグ到着 19・11・20 第3大隊ルビ南東2キロに進出 此の時一部の米軍と遭遇しこれを撃退米軍も秘密裡に小部隊がジャングル路を西進しており 記録が残存している 19・11・22 マタグバ西方二八七高地に進出 「ブラウエン方面に敵を見ず」と報告 19.11・26 第3大隊マタグバ東方地区に進出 先遣の小泉集成中隊を掌握(小泉少尉を長ととする学徒兵将校を中心の集成中隊 200名 抜兵団) 19・11・27 工兵26聯隊 品川聯隊長は「ルビ」まで野砲搬送道を完成したと 師団本部に出頭し報告 19・11・28 第3大隊は「マタグバ方面に敵第86師団進出アルガゴトシ」と報告 報告は正面の敵が空中補給を受けているのを目撃 第3大隊は山に入って既に半ケ月経っていた 補給は充分でないから この頃は多くの栄養失調・マラリヤ・下痢患者が出て おり 其の状況下、同日12・30〜18・00の間に「287高地後方ニ進入シ来タレリ敵100ヲ奇襲攻撃シ其ノ半数以上ヲ殺傷、 ソノ他ノ戦果ヲ得タリ」と報告 ダキタン川渓谷に沿った小高地を巡って米511聯隊とのジャングル内で余儀なき戦闘があり(当時の報告書が厚労省に 保管残存しているが 100名程度を殺傷撃滅したとある) 19・12・03 軍司令部あて第26師団司令部の報告では先遣の第3大隊は205高地付近を進出中にて6日「ブラウエン飛行場」に対し 約40組の斬り込隊を投入する予定なり又大隊の一部はブラウエン南方5キロ327高地を前進中なり、野中大隊(第30師団77 聯隊の一部を基幹としてオルモック周辺にあった部隊を集成)は3日ルビ着、15・00には287高地に前進せり井上大隊 (独歩12聯隊第2大隊)は12日夕「ルビ」到着予定 師団司令部は4日午後 287高地に進出予定と(師団司令部は結局 287高地 には進出していない) 19・12・05 第14方面軍作戦参謀 田中光祐少佐は師団司令部(戦闘指令所)に到着し後の手記には次の如く書いている 密林の山中にこもって飢餓に瀕している泉師団の兵士たちは いづれも目ばかり白く凄みを帯び骨と皮ばかりである。 まるでどの顔も生きながらの屍である、地獄絵のような悽愴な形相である 19・12・6 第3大隊は6日夜「予定通り突入」という報告を師団司令部へ午後8時白井垣春少佐指揮する空挺第3聯隊(香取隊)260名は 39機に分乗ブラウエン及びサンバブロ飛行場に降下 ここに和号作戦の火蓋が開かれた第3大隊の南飛行場へ4人〜5人単位 40組の斬り込み隊が突入したが頑強な米軍の抵抗に会い飛行場の一角に取り付き激戦を展開7日夜には更に前進し復行 滑走路を占拠、付近の天幕 高射砲を破壊16師団突入の北飛行場とともに第1線の心血をつぎ込んだ我が空地共同の和号作戦 はかくして相当の成果を収めブラウエン両飛行場を確保、26師団の僅かな生還者の証言では第3大隊の兵士は出発時に 自分の幕舎まで残し還らぬつもりで出発した。 しかし斬り込み後若干は還ってきましたがこの兵隊たちは飢餓のため もう体力の限界で動けない者多かったと 19・12・07 中村高級参謀 がルビに帰来し第26師団は昨6日重松大隊が夜襲斬り込みしたのみで師団全体では動いていない旨 報告した 一部の本では7日未明〜8日後半にかけて空挺第3聯隊 第16師団 重松大隊が夫々連絡が出来き共に行動したとの記述もある 19・12・08 朝 軍指令所に田中方面軍参謀 26師団峰尾参謀到着田中参謀は重松大隊の位置まで行った 26師団主力は7日の斬り込み には間にあわなかったと報告 19・12・09 7日払暁 米77師団2個聯隊がデボジトに逆上陸に伴い 軍司令官は「戦闘指令所」は9日反転を決意峯尾参謀に対し第26師団 は一部を以ってブラウエン南西6キロを扼して軍の転進擁護後すみやかに主力をもってオルモック平地に転進 上陸中の米軍を 攻撃 16師団の収容の命を下す 19・12・09 師団に反転を命ぜられたのが9日で先遣の第3大隊は師団命令で此の地に残留イピルを出発して1ケ月経って折り飢餓と 相次ぐ戦闘で体力を消耗且弾薬の補給も皆無の中、殿軍としての追撃の米軍の攻撃をこの地で阻止する任務を与えられた 19・12・18 挺進第3聯隊長の陣中日誌が幾多の兵士の手を経て奇跡的に 日本に持ち帰られているが日誌には「18日重松大隊とマタグバ 東北4キロ付近のジャングル中にて遭遇せり」とある 更に日誌はその後 重松大隊と西進せり 重松大隊は全員幽霊の如くやせ細り歩くにも一日数キロという有様であったとある 当時何名くらいがであったか記述はないが 恐らく200名以下に激減したいたのではないだろうか第3大隊 高千穂部隊とも 生還者は皆無のため真実は不明である 19・12・22 白井連隊長は第3大隊と行動し 287高地 で野中大隊と合致する ※野中大隊とは第2陣としての豹兵団 第77聯隊第2大隊のこと戦後判明したことであるが 伊故海第10中隊長以下855名 が12月22日「ブラウエン飛行場西方10キロにて戦死」という一括認定の戦死公報がでている 19・12・28 35軍参謀 高橋公平少佐の証言によれば 26師団重松大隊長、 高千穂降下部隊白井少佐、は12月28日まで287高地で追撃の 米軍と交戦しながら後衛突兵としての任務を果たしていた ※高橋公平少佐はご高齢ながら北海道でご健在で ある、 今年も年賀状を頂いた10数年前お住まいが判り電話したことが あるが 重松と名乗ったところ即座に重松大隊長の息子さんですかとお応えがあり 後日次の如き丁重なるお手紙を頂いた 「重松大隊長にお会いしたのは敵の迫撃砲弾が飛んでくる ジャングルの中でしたそれまで先遣隊としての任務を遂行され 進入してきた一部の敵を殲滅されたことは今でも記憶に残っております。その後状況は好転せず転進を始め泉部隊に復帰 したと記憶しています重松さん個人の記憶としては 正に 軍人という感じを受けました と お会いした機会も少なかったので具体的なことは申しあげられず残念におもいます云々とありました」 その後高千穂部隊出発後 第3大隊も転進を開始追撃の米軍と交戦しながらの後衛突兵としての任務を果たしての転進は 難渋を極めた。道なき脊梁山脈西方の山腹を斜行、マラリヤ 等の病 栄養失調 飢餓と斗ながら多くの谷越え 岩の上りを強い られながらオルモック湾の米艦船を遠望しつつ転進は続いた オルモックも既に日本軍は撤退しておりダナオ湖経由一路カンギポットを目指し転進は続いた 転進道は26師団主力が転進通過した道で各所に集中して多くの日本将兵の白骨死体が見受けられたといわれる。 後に この転進街道を白骨街道といわれるようになった 戦史によれば高千穂部隊は12月28日夜出発 、脊梁山脈西方を転進1月にはリモン南方地区にて本道を突破 25日星兵団着26日軍司令部に到達 2月4日白井聯隊長は陣没されている 20・02・上旬 第3大隊カンギポットの師団司令部到達(戦後東嶋大尉の証言のよれば〇〇名が到達したと聞いた記憶があるが失念して おり 恐らく数十名であろうと思う) 20・03・頃 第3大隊は泉師団 自活自戦地域 シラドに移転 絶え間ない米比軍との交戦に明け暮れる間隙をぬい毎日が食料の調達と 潮汲みであったそうである 20・04・10 米比軍の集中攻撃があり 父と共に戦った第12山本中隊長戦死 20・05・頃 自活自戦 体力も失くなり 少ない将兵も 飢餓と病で次次と戦死 20・05・末頃 第26師団司令部兵器勤務隊の出納官吏曹長 山森三平氏(生還者)の著書に次の記述あり山森曹長は当時26師団 加藤参謀長の当番兵をされていたようで 5月末ごろと記憶している。26師団はカンギポットの洞窟が所在であった。加藤参謀長を中心とする今堀聯隊 工兵聯隊の一部に過ぎない 眼下の小道を行くのは今堀聯隊の軍旗である。先遣は将校か准士官の指揮する 前衛一個分隊くらい、それから50メートル程遅れて軍旗を護衛する下士官3名と記憶する、 軍旗は軍旗覆に 包まれていたが聯隊旗手の足は軽かった 其の跡を行く聯隊長は杖をついていてちょっとよろめく足取りであった その後は東嶋大尉である東嶋大尉の後には約30名ほどの将校 下士官兵が続く 最終が品川工兵聯隊長以下 約10名 粛々200名というところか とあり 26師団 13,000名が師団長も戦死 し加藤参謀長を長として聯隊長二人を含む 200名が生存ということを意味している 20・06・ 10 部隊将兵も戦死し部隊は消滅、父は部下将兵の後を追い軍刀にて覚悟の自決、マラリヤと栄養失調で体力無く銃声も周囲 への影響を考え軍刀で喉を突きたてたといわれている。遺言は「前に手紙にて伝えてある」の一言であったそうだ 私が思うに 肌身離さず持っていた私たち兄弟の写真や手紙を握り締め生粋の武人として軍人として雄雄しく死を迎えたと思う この最期は師団司令部に報告され 当時の生存者が一様に留守宅への責務と考え伝え合い 戦後 痛ましい戦傷で奇跡的に 生還された東嶋登大尉からお知らせ頂いた。 其の時の お話では 戦死後 和号作戦の殊勲に対し畏くも上聞に達し特進の扱いもされたと聞いているが戦死公報は 「陸軍中佐」となっている ※東嶋大尉(独立歩兵第12聯隊 副官 )は 同じ大分歩兵第47聯隊の出身で父が先輩に当たり且独歩第12聯隊に2年間在隊 していたので旧知の間柄であった 泉師団生還者 27名「(レイテ上陸後 生還した)13800名が戦死」のうち 唯一の幹部将校で玉砕部隊ながら師団の最期が判明 しているのは東嶋大尉が生還し多くの戦史を証言されたからである 別府の旧陸軍病院で父の最期をお知らせ頂いたときと数年後 松葉杖をついて我が家の仏前参りにお越し頂いた時と2度お目 にかかっている 初めて 東嶋大尉にお目にかかったのは 21年6月頃と記憶している 私の実家(大分県中津市)から入院療養中の別府病院まで 50キロ程度であるが 当時のこととて前日 食糧の米持参で別府 の旅館に泊り早朝のバスで行ったことを記憶している(母と弟の3人で)大尉は4人部屋の右 窓側のベッドで父の部隊戦史に ついて説明お知らせいただいたが病衣を開き 腹部の傷跡を見せていただいたことは鮮明に子供心に覚えている それと 毛筆で書かれた分厚い手控に ビッシリと戦没者の氏名が書かれ克明に記録されていた恐らく復員の病院船の中で 記憶の確かなうちにと 考えられ記録されたのではなかろうか 大尉は20年7月末 迫撃砲弾に被弾、人事不省のところを 米軍に収容され奇跡的に生還されたもので片足切断 腹部には無数 の弾痕の痛ましい戦傷を負い その後戦傷が因で昭和31年死去されました 泉師団関係者は今では 散華された13,800名の 英霊が師団最期の使者として故国 内地日本に託したのでは と思っています。 第1回部隊慰霊祭を待たず死去されたご主人様のご遺志を継がれ 奥様も今堀聯隊長の奥様と連れ立たれ昭和40年代の 早期に幾度となく現地巡拝に参加され、毎年の岐阜の慰霊祭には 遥遥東京から駆けつけられ慰霊に尽くされておられます。 〇終戦後の20年12月頃 日本放送協会(現在のNHK)のラジオ放送で「泉師団独歩13聯隊第3大隊 重松大隊はレイテ島の 飛行場奪還作戦で 玉砕」との放送を聞いた 父の陸士時代の同期生 から知らせがあり改めて放送協会に手紙で照会し その回答が今も 残っている 其の頃から 我が家では 父の戦死は事前に承知し覚悟していた 〇東嶋大尉に面談したのは 上記から6ケ月後 正式な戦死公報(レイテ島シラドにて戦死 陸軍中佐 重松勲次とある) はそれから更に遅れること 1年後の昭和22年7月である 独立歩兵第13聯隊のレイテ島への参戦経路 @朝鮮釜山港 ⇒ 台湾馬公港 ⇒マニラ港 ⇒レイテ島 (伊万里港で船団編成)第26師団は 摩耶山丸 玉津丸 香椎丸 日昌丸に分散乗船 A 〃 ⇒ 台湾馬公港 ⇒マニラ港 ⇒マスバテ島周辺の孤島 ⇒ レイテ島 (後発のレイテ行き輸送船に救助され) B 〃 ⇒ 台湾馬公港 ⇒ マニラ港 ⇒ マスバテ島周辺の孤島 ⇒レイテ島 レイテからの帰途の輸送船に救助されマニラ港に一旦帰り再度レイテ決戦に参戦 C 〃 ⇒ 台湾馬公港 ⇒マニラ港 ⇒ マスバテ島 ⇒セブ島 レイテ島を目前に 輸送船も無く 終戦を迎える 生還者100名弱 戦後の国内慰霊碑 慰霊祭の中心となる D 〃 ⇒ 台湾馬公港 ⇒ マニラ港 ⇒ マスバテ島 生還者 100数名 E 〃 ⇒台湾馬公港⇒ バシー海き狭で 玉津丸海没 ⇒マニラ港 ⇒レイテ島 早期に海上から救助され 本隊に合流 尾崎大尉以下10数名 F 〃 ⇒台湾馬公港⇒ バシー海狭で 玉津丸海没 12日間海上を漂流後 意識不明のところ救助され高雄陸軍病院へ中嶋秀次さん 稲葉彦男さん 浅井芳郎さんの3名が生還 釜山港で ヒ71船団 編成時の乗船区分 @玉津丸 聯隊本部 第2大隊 歩兵砲中隊 通信中隊 他に14ケ部隊合わせて5,000名乗船 8月19日バシー海峡で海没 A香椎丸 第3大隊 第1機関銃中隊 他の部隊合わせて4,000名乗船8月22日 マニラ港入港 B越海丸 第1大隊 他の部隊合わせて4,000名乗船遅れて 別の船団で8月16日 下関港出港 8月27日北サンフエルナンド港入港 ルソン島 ⇒ レイテ島への乗船区分 @第1大隊 10月31日出発 機帆船3群 1,050名 機帆船 100トン内外に分乗した詳細 勢吉丸 大隊本部 第2中隊の指揮班 中沢小隊 竹下小隊 神力丸 第3中隊 谷川小隊 大栄丸 八木隊内山小隊 佐方隊田高小隊 関門丸 第1機関銃隊 八木隊岡本小隊 A第2大隊 11月1日出発 機帆船4群 1,050名 B聯隊主力(第1大隊 第2大隊を除く)泰山丸 1,400名 11月4日出発 C金華丸 香椎丸 高津丸には 師団司令部 直轄部隊が乗船11月8日 マニラ出港 9日夕刻18時30分オルモック港上陸 Dその他3隻船名不詳に 第1中隊 第4中隊乗船 戦死者名簿作成について 昭和32年12月29日〜31日の間 延べ15名で静岡県庁の正月休みを利用して県内出身者の泉5316部隊戦没者を調べる為 県援護局長に特にお願し戦死者名簿の閲覧により宿直室を借り抽出書き これを更に県下市町村別に分別し 各市町村宛発送し確認を依頼静岡県以外の他府県については 厚生省に特別に依頼し各当道府県別に 掌握した 5316会作成の部隊戦死者名簿には 3,614柱の ご英霊が記載されているが ルソン島上陸後聯隊本部 及び 第2大隊再編成の際 編入された和歌山歩兵第6T聯隊補充隊等(推定500名)が名簿に記載されていない。 ご遺族は近畿周辺に多く 証言確認もあり 名簿作成の際 脱落の不備がある 尚 同じ時期に編入された新発田歩兵第16聯隊補充隊(200名)は名簿に記載ありよって 部隊の戦死者は 4,100名前後となる -------------------------------------------------- 玉 津 丸 平成22年9月12日から 10日間 逐次 全国朝日放送系でテレビ放送された「バシー海峡〜知られざる惨劇の記憶」について 前後3回取材を受け協力した(放送前にテレビ局から 連絡もあり 70名近くの方に電話にて連絡、 この放送を契機に本ページ作成した) 放送は 19・8・19 バシー海峡で米潜水艦の魚雷攻撃で海没した「玉津丸」の悲劇で以下は名古屋テレビ放送会社に提供した書籍 資料を要約したものである 1944年建造 陸軍特殊輸送船(船内に上陸用舟艇を収容 俗にMT船と呼称)速力20・4 ノット 長さ140m 幅 19m 9,590t 輸送船史上 一船では最大の犠牲者を出した玉津丸の悲劇 今も多くの輸送船がバシー海峡の海底深く 海の藻屑と消えた 悲劇を知る人も少なく この機会に是非世間に知らしめて欲しいと切なる希望です 玉津丸は ヒ71船団(フイリピン航路71番目の船団)に属し当時では最高の優秀船及び多数の護衛艦にて編成されたにも拘わらず バシー海峡で米潜「ブルーフイッシュ」の魚雷攻撃で海没した この船団は比島防衛の兵力増強を目的とする泉兵団(第26師団)をはじめ 多数の精鋭を搭載した輸送船と昭南方面に石油積み 取りに行くタンカーを以て編成した高速船団で瑞鳳丸 永洋丸の12ノット以外は15ノット以上の性能を備えていた。 航 程
21日マニラ港に到着 護衛艦の海防艦 佐渡 松輪 日振はそのまま現場に留まり敵潜掃討を続行 21日撤収しマニラに向けて航行中 バターン半島沖にて雷撃を受けて 3隻とも沈没 玉津丸 大阪商船所属 処女航海 昭和19・02・13 乗船部隊指揮官 独立歩兵第13聯隊 聯隊長 安尾正綱大佐 乗船部隊 ○第26師団独歩第13聯隊 安尾聯隊長ほか聯隊本部 同聯隊第2大隊 原井大隊長ほか第2大隊全員 同聯隊通信中隊 垣川中隊長ほか中隊の大部 同聯隊聯隊砲中隊 土橋中隊長ほか中隊の全員 同師団通信隊の一部 計 2,000名戦死 3名生還 戦死者名簿あり ○第26師団通信隊 戦死者名簿あり ○第22野戦重砲聯隊 主力 ○独立重砲第4大隊 ○仮編独速砲第19大隊(独立速射砲第19大隊) ○第5南方方面軍 ○第155飛行場大隊部隊総員400名 二瓶照雄氏のみ生還 ○南方燃料本部 ○野戦貨物廠 ○第18航空地区司令部 ○第139飛行場設営隊 大城善繁氏 狩野得忍氏2名生還 他の172名全員戦死 ○第70飛行場中隊 ○12MGS(第12機関銃小隊のことか?) ○55MACS ? ○7HA ? ○長野師団管区砲兵補充隊 ご遺族存在? 以上 厚労省の資料から 以上 15部隊が乗船 独歩第13聯隊(多数) 第22野戦重砲連隊(1名) 独立速射砲第19大隊(2名) 第155飛行場大隊(2名) 第139飛行場設営隊(2名) 第70飛行場中隊(1名) 玉津丸(乗り組み船員1名)の遺族の皆さんと 親交あり 乗船者数 乗船部隊総員 4,459名 生存者数 53名 〃船舶砲兵 226名 〃 9名 〃 船員 135名 〃 3名 計 4820名 65名 救助されている 玉津丸関係の資料 書籍は レイテ文庫 B-2欄に記載 ◎船員の生還者有馬純利氏 事故報告書(陸軍徴傭船舶行動調書によれば) 甲板員 吉川美憲氏 東畑清隆氏は救命ボートを操作し乗船部隊員43名を救助し4日間漂流後護衛艦に収容される 東畑清隆氏はそのご三菱汽船「おりんぴあ丸」に乗船勤務中19・9・29米空軍機の空爆で戦死 (第155飛行場大隊 ご遺族平山様の調査による) ◎泉師団将兵のうち生還者は3名(12日間漂流後 救助) ◎独歩12聯隊は日昌丸に大部が乗船、一部は他の輸送船(摩耶山丸)に乗船 ◎父(独歩第13聯隊 第3大隊)は香椎丸に乗船 マニラ港着 ◎空母 大鷹の船長 杉野大佐(杉野兵曹長の御子息は)今堀聯隊長(独歩12聯隊)と津中学の同窓生にて馬公港停泊時に同船を訪れ 旧交を温めている ◎NO14「雷跡」の著者の記述に 71船団の漂流者が多数目撃されていたと あるが 中嶋秀次さんの証言では かかる事実は無かったと 否定されている少数のものが 海上に脱出はしたが 多くは運命を船とともにしたのではないか 後日 著者の宇野氏より面談の 申し入れあるも最終 合う機会が無かった この事実は 後日 「NHK戦争証言アーカイブス」出演の阿部顕瑞氏の証言から 同じヒ71船団 帝亜丸乗船の部隊将兵であるこtが判明 ◎玉津丸以外の輸送船に乗船した泉師団将兵はルソン島 到着後 サンミゲル 一部はマニラ地区に駐留 レイテ決戦参戦の命を受けた10月下旬 全員に「軍用往復ハガキ」が渡され それが当時では奇跡的に内地日本の留守宅に届いている このハガキが届いているか 否かが バシー海峡を無事通過したかの判断基礎となっている 玉津丸乗船の第70飛行場中隊の あるご遺族から提供を受けた 当時の戦死公報 (? 印 判読困難を表す) 1 所属部隊官氏名 ○○○○ ○○ ○○ 2 生死不明となった日時場所 昭和19年8月19日 4時40分 バシー海峡 3 生死不明となった前後の状況 輸送船 玉津丸は昭和19年8月4日2,229名 乗船して門司港出港 安尾正綱大佐 輸送船指揮官となり 8月8日 06・15 釜山出港 8月10日 伊万里港出港 8月15日 馬公に寄港 17日 08・00「マニラ」に向けて出港した 當時「バシー」海峡 「ルソン」島 西北部に米潜水艦の集合ありとの 情報により厳重なる注意警戒を 実施して進航す 18日 日没より猛烈なる降雨あり 視界狭少となり 22時30分突然潜水艦魚雷攻撃を受けたるを認めたる為 直ちに爆雷を 投下して之が制圧すると共に回避中 暗黒夜と猛雨の為 次第に僚船 と離反するに至り 僚船の行動一切不明となり 本船は単独北航せるものの如く 04・35 附近に敵潜の近接したるを発見したので 之を回避 しつつ航進中 船腹中央機関部に魚雷命中 一大衝撃音響と共に爆発し船体中央煙突附近より猛烈なる蒸気を噴出し つつ左側に傾斜急速に浸水した ??船体機関室?船?に浸水 数分で船体全く??した ?の? 全員退船を命じたるも 沈没までの時間僅少なりし上 傾斜急速なる為 退船者少なく 積載物件共海没した 4 ??????? 退船にありては? 救命具等配置して収容に努めたるも波高く 加ふる に風向潮流の為 分散し降雨暗黒の為視界利かず捜索救命等意の如くならず 漂流者中 8名は「高雄」 に11名は北「サンフエルナンド」に救助せられ 他の46名 は台湾 南端8??附近近海?に於いて船団護衛の海防艦「屋代」に救助せられた 5 戦死認定の理由 前記の如く魚雷攻撃を受くると共に 船体大傾斜し極めて至短時間に沈没したのと當時降雨激しく暗夜であって視界僅少波浪の為 退船困難 なると??じて退船せる者と救助困難であった状況より 判断して船と運命を共にせるか 或いは退船後 海中に海没せるものと認む よって昭和19年8月19日 前記場所に於いて 戦死せるものと認定する 昭和23年 月 日 ? 渡 馬 孝 |